北条民雄 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
思へばここ数年来、年あらたまる毎に私の生活は苦痛を増すばかりであつた。十七の春、小林多喜二氏の「不在地主」を読んで初めて現実への夢を破られた私は、それ以来愚劣な人生と醜悪な現実を友として過して来た。夢は遠く消え失せ、残つたものは冷い鉄くづや、何の役にも立たない石ころばかりであつた。そしてエントロピーが極大限に達した瞬間を想像しては、にやにやと笑ふのであつた。それ故に癩の発病は私に対して大した力を持たなかつた。お前の病気は癩だと医者に言はれたとき、私はなんとなく滑稽になつてにやりと笑つたのを覚えてゐる。あれは四国の私の田舎の皮膚科病院の一室であつたが、その時私の体内の熱は平衡に達してゐたらしい。私は自分の体内に新しく癩菌といふ友人を発見して、恐しいといふよりも奇妙な楽しさを覚えてをかしかつたのである。しかし、この新しい友人のなんと執拗な力を持つてゐることか。私の熱平衡は徐々にくづれ、それまで私の理性の圧迫下で黙々と耐へてゐた「苦痛」といふやつが、少しづつ頭を抬げて、やがて理性に対決する力を持ち始めたのだ。そしてこれは必然私にペンを持たせた。私は文学といふものが初めて必要になつたのである。
北条民雄
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