宮本百合子 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
一 一九四三年だったかそれともその翌年だったか、ある夏のことであった。ある晩わたしは、中野鷺宮の壺井栄さんの家の縁側ですずんでいた。そのころ、わたしにとって栄さんの家は生活の上になくてはならない休みどころであった。手拭の新しいので縫った小さい米袋に、ひとにぎりの米を入れ、なにかありあわせたおかずがあればそれも買物籠に入れて栄さんのところに出かけた。そして栄さんの家族にまじって賑やかな、それでいてしっとりした御飯をたべさせてもらい、大抵の時はそのまま腰がぬけて泊めてもらった。それはわたしの「里がえり」とか「やぶ入り」とかいう名がついていた。 その晩もやっぱりそういう「里がえり」の一日であったのだろうと思う。縁側で涼しい風にあたっている時、栄さんが、もしかしたらいまに櫛田さんがくるかもしれませんよといった。わたしはその人が誰だか知らなかったし、おちあったこともなかった。その頃栄さんは、若い婦人のためのある雑誌に連載小説をかいていた。その雑誌の編輯者が櫛田ふきさんというその人であった。本当は今日原稿をわたす約束だったのだけれども、何しろこのありさまでね、と栄さんはすっかり筋をぬいてそこにたぐ

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