Vol. 2May 2026

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幕末維新懐古談 39 牙彫りを排し木彫りに固執したはなし

高村光雲

「いやしくも仏師たるものが、自作を持って道具屋の店に売りに行く位なら、焼き芋でも焼いていろ、団子でもこねていろ」 これは高橋鳳雲が時々私の師匠東雲にいって聞かせた言葉だそうであります。 私もまた、東雲師から、風雲はこういって我々を誡められた、といってその話を聞かされたものであります。それで、私の脳にも、この言葉が残っている。いい草は下品であっても志はまことに

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幕末維新懐古談 40 貿易品の型彫りをしたはなし

高村光雲

それから、また暫くの後、或る日私が仕事場で仕事をしていると、一人の百姓のような風体をした老人が格子戸を開けて訪ねて来ました。 その人は、チョン髷を結って、太い鼻緒の下駄を穿き、見るからに素樸な風体、変な人だと思っていると、 「一つ彫刻を頼みたい」という。 「木で彫る方の彫刻なら何んでも彫りましょう」 と答えると、 「それは結構、では今夜私の宅へ来て下さい。能

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幕末維新懐古談 41 蘆の葉のおもちゃのはなし

高村光雲

暫く話を途切らしたんで、少し調子がおかしい……何処まで話したっけ……さよう……この前の話の処でまず一段落附いたことになっていた。これからは、ずっと、私の仕事が社会的に働きかけて行こうという順序になるので、私の境遇――生活状態もしたがってまた実際的で複雑になって行くことになりますが、話の手順はかえって秩序よく進んで行くことと思う。 ところで、今日は暫くぶりであ

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幕末維新懐古談 42 熊手を拵えて売ったはなし

高村光雲

こういうことが続いていたが、或る年、大分大仕掛けに、父は熊手を拵え出しました。 鳥の市でなくてならないあの熊手は誰でも知っている通りのもの。真ん中に俵が三俵。千両函、大福帳、蕪、隠れ蓑、隠れ笠、おかめの面などの宝尽くしが張子紙で出来て、それをいろいろな絵具で塗り附ける。枝珊瑚などは紅の方でも際立ったもの、その配色の工合で生かして綺麗に景色の好いものとなる。こ

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幕末維新懐古談 43 歳の市のことなど

高村光雲

それから、もう一つ、歳の市をやったことがあります。 歳の市の売り物は正月用意のものです。父の売ったものはこれは老人自身のひと趣向なので巾八寸位の蒲鉾板位のものに青竹を左右に立て、松を根じめにして、注連縄を張って、真ん中に橙を置き海老、福包み(榧、勝栗などを紙に包んで水引を掛けて包んだもの、延命袋のようなもの)などを附けて門飾りにしたものです。 これは、大小拵

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幕末維新懐古談 44 東雲師の家の跡のことなど

高村光雲

ついでながら師匠東雲師の家の跡のことをいって置きましょう。 師が没せられて後私ら兄弟子三枝松政吉氏が後のことを私に代ってやったことは、先日話しました。東雲の二代目になる息子は、雷門の焼けた丑年生まれで、師の没せられた時は十四、五、名を栄吉といって後に二代東雲となりましたが、この人、気性は父に似て至って正直で、物堅い人、また甚だ楽天家でありましたが、かなり酒量

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幕末維新懐古談 45 竜池会の起ったはなし

高村光雲

さて、今日までの話は、私の蔭の仕事ばかりで何らこの社会とは交渉のないものであったが、これからはようやく私の生活が世間的に芽を出し掛けたことになります。すなわち自分の仕事として、その仕事が世の中に現われて来るということになる訳です。といって、まだまだようやくそれは世の中に顔を出した位のものであります。 それは、どういう事から起因したかというと明治十七年頃日本美

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幕末維新懐古談 46 石川光明氏と心安くなったはなし

高村光雲

さて、話は自然私がどうして石川光明氏と交を結ぶことになったかということに落ちて来ます。それを話します。 明治十五年、私は西町三番地の家で毎日仕事をしておりました。仕事場は往来を前にした処で、前述の通りのように至って質素な、ただ仕事が出来るという位の処であった。 その頃、木彫りは衰え切っている。しかし牙彫りの方は全盛で、この方には知名の人が多く立派に門戸を張っ

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幕末維新懐古談 47 彫工会の成り立ちについて

高村光雲

この頃になって一時に種々の事が一緒に起って来るので、どの話をしてよろしいか自分ながら選択に苦しみますが、先に日本美術協会の話をしたから、引き続き、ついでに東京彫工会のことについて話します。 東京彫工会というものの出来たのは、妙なことが動機となって出来たのであります(ちょっと断わって置きますが、その当時の彫刻家は全部牙彫という有様であった)。その彫刻界に一つの

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幕末維新懐古談 48 会の名のことなど

高村光雲

そこで、この会名の相談になったのでありますが、牙彫家の集団の会であるから、牙彫の「牙」という文字を入れるか、入れないかという間題になった。 無論牙彫の人たちばかりのこと故、「牙」を入れるが当然であるが、しかし、御相談を受けて私もその席上にあってこの話を聴いていたことであったが、元来、私は牙彫師でないのにかかわらず、この会合の仲間に這入って来ているので、或る人

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幕末維新懐古談 49 発会当時およびその後のことなど

高村光雲

当日は会の発表祝賀会を兼ねて製作展覧を催したのでありました。 展覧の方は今日のように硝子箱に製品を陳列するなどの準備などは無論なく、無雑作なやり方ではあったが、牙彫の製品はかなり出品があって賑やかであった。木彫の方は私は都合が悪くて出品しませんでしたが、林美雲が一点だけ牙彫の中に混って出品しました。 発会式は非常な景気で諸万からお遣い物などが来て盛大を極め、

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幕末維新懐古談 50 大病をした時のことなど

高村光雲

ちょうどこの彫工会発会当時前後は私は西町にいました。 その節、彼の三河屋の老人と心やすくなって三河屋の仕事をしたことは前に話しましたが、その関係上、少しでも三河屋の方に近くなる方が都合がよかったので、老人の勧めもあって、仲御徒町一丁目三十七番地へ転宅しました。西町の宅よりも四丁ほど近くなったわけでした。 さて、彫工会の発会等もすべて落着し私はこれから大いにや

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幕末維新懐古談 51 大隈綾子刀自の思い出

高村光雲

話がずっと後戻りしますが、今日は少し別のはなしをしようかと思いますが、どうですか。 ……では、そのはなしをすることにしましょう。 実は、先日来、大隈未亡人綾子刀自が御重体であると新聞紙上で承り、昔、お見知りの人のことで、蔭ながらお案じしていた次第であったが、今朝(大正十二年四月二十九日)の新聞を見ると、お歿なりになったそうで、まことに御愁傷のことである。 そ

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幕末維新懐古談 52 皇居御造営の事、鏡縁、欄間を彫ったはなし

高村光雲

御徒町に転宅しまして病気も概かた癒りました。 その時が明治二十年の秋……まだ本当に元の身体には復しませんが仕事には差し閊えのないほどになった。 すると、その年の十二月、皇居御造営事務局から御用これあるにつき出頭すべしとの御差紙が参りました。何んの御用であるか、いずれ何かの御尋ねであろう、出て行けば分ろうと思って出頭しますと、皇居御造営について宮城内の御間の御

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幕末維新懐古談 53 葉茶屋の狆のはなし

高村光雲

さて、鏡縁御欄間の仕事が終りますと、今度は以前より、もっと大役を仰せ附かりました。 これは貴婦人の間の装飾となるのだそうで御座いますが、貴婦人の間のどういう所へ附いたものかその御場所は存じません。何んでも御階段を昇り切ったところに柱があってその装飾として四頭の狆を彫れという御命令であった。 これは東京彫工会へ御命令になったので、木彫りで出来るのではなく、鋳金

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幕末維新懐古談 54 好き狆のモデルを得たはなし

高村光雲

合田氏のはなしを聞けば、なるほど耳寄りな話である。 合田氏は、私の今使っているモデルの狆を口ではそれと悪くはいわないが、この狆よりも数等上手の狆がいることを話された。それはツイ先月の話のことだが、合田氏の知人に、徳川家の御側御用を勤められた戸川という方があって、その御隠居が可愛がった一匹の狆があった。それはなかなかの名狆であるのだが、戸川家も世が世で微禄され

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幕末維新懐古談 55 四頭の狆を製作したはなし

高村光雲

いよいよ狆の製作が出来ました。 先のと、それから「種」のモデルの方が三つです。一つは起って前肢を挙げている(これは葉茶屋の方のです)。一つは寝転んでいる。一つは駆けて来て鞠に戯れている。今一つは四肢で起っている所であった。この四つの製作はいずれも鋳物の原型になるのであるから、材料を特に木彫りとして勘考することもいらぬので、私は檜で彫ることにしました。いうまで

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幕末維新懐古談 56 鶏の製作を引き受けたはなし

高村光雲

狆の製作が終ってから暫くしてふと鶏を彫ることになりました。 その頃京橋南鍋町に若井兼三郎俗に近兼という道具商があった。この人は同業仲間でも好い顔で、高等品を取り扱い、道具商とはいいながら、一種の見識を備えた人であった。またその頃、築地に起立工商会社という美術貿易の商会があって、これは政府の補助を受けなかなか旺んにやっておった。社長は松尾儀助氏で、右の若井兼三

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幕末維新懐古談 57 矮鶏のモデルを探したはなし

高村光雲

以前狆のモデルで苦労した経験がありますから、今度はチャボのモデルは好い上にも好いのを選みたいというのが私の最初の考えであった。 しかし、矮鶏は狆と違ってその穿鑿も楽であろうと思った……とにかく、早速、狆のモデルの事で注意を与えてくれた彼の後藤貞行氏を訪ねて、今度の製作のことを話し、チャボの良いのがなかろうかと相談しました。 動物には何かと関係のある人だから、

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幕末維新懐古談 58 矮鶏の製作に取り掛かったこと

高村光雲

かれこれ批評を聞いたり、姿形を研究したりしている間に、一月余りも経ってしまいましたので、いよいよ取り掛かることにしました。 材は桜です。その時分はまだ桜の材で上等のものが沢山あったが現今では甚だ稀です。南部の方から出るのが良材であります。まず、雄鶏の方から初めました(木彫りの順序は鑿打ちで形を拵え、鑿と小刀で荒彫り、それから小作り、仕上げとなる)。無駄をして

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幕末維新懐古談 59 矮鶏の作が計らず展覧会に出品されたいきさつ

高村光雲

それから、三月一杯掛かって、四月早々仕上げを終る……その前後にまた一つお話しをして置くことが出て来る…… 美術協会の展覧会は、毎年四月に開かれることになっている。ちょうど私の製作を終ろうという間際にそれが打っ附かったのです。 協会の方では開会の準備のためにそれぞれ技術家たちへ出品の勧誘などをしていた時であった。 或る日、役員たちの集まった時に、幹部の方の一人

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幕末維新懐古談 60 聖上行幸当日のはなし

高村光雲

さて、当日になりました。 午前中に準備に取り掛かる。 濤川惣助氏の無線七宝の花瓶というのは、高サ二尺、胴の差し渡し一尺位で金属の肌の上に卵色の無線の七宝が施されたもので、形は壺形をしている。その鮮麗さは目も覚めるばかりです。 そうして、私の矮鶏はその右側に置かれました。 大きな硝子箱の中に古代裂の上に据えた七宝と、白絹の布片の上に置かれた鶏とはちょうど格好な

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幕末維新懐古談 61 叡覧後の矮鶏のはなし

高村光雲

さて、展覧会もやがて閉会に近づいた頃、旅先から若井兼三郎氏が帰って来た。 いうまでもなく矮鶏の一件のことは直ぐ同氏の耳に入った。早速、同氏は会場へやって来られた。私はどうも直ぐに若井氏に逢うのが気が引けますから、はずしていると、若井氏は松尾儀助氏に向って何か話していられる。無論、今度の一件であることは分る。そこで、どういう風に松尾儀助が若井氏をいいなだめたか

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幕末維新懐古談 62 佐竹の原繁昌のはなし

高村光雲

下谷西町で相変らずコツコツと自分の仕事を専念にやっている中に、妙なことで計らず少し突飛な思い附きで余計な仕事を遊び半分にしたことがあります。これも私の思い出の一つとして記憶にあること故、今日はその事を話しましょう。 その頃(明治十八年の頃)下谷に通称「佐竹原」という大きな原がありました。この原の中へ思い附きで大仏を拵えたというはなし……それは八角形の下台とも

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