平原の木と鳥
小川未明
春の先駆者であるひばりが、大空に高く舞い上がって、しきりにさえずるときに、謙遜なほおじろは、田圃の畦道に立っているはんのきや、平原の高い木のいただきに止まって、村や、野原をながめながらさえずりました。 「もっと高く上がって、鳴いたらいいじゃないか? 春の魁となるくらいなら、おれみたいに敵を怖ろしがらぬ勇気がなければならない。おれは、高く、高く、できるだけ高く
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小川未明
春の先駆者であるひばりが、大空に高く舞い上がって、しきりにさえずるときに、謙遜なほおじろは、田圃の畦道に立っているはんのきや、平原の高い木のいただきに止まって、村や、野原をながめながらさえずりました。 「もっと高く上がって、鳴いたらいいじゃないか? 春の魁となるくらいなら、おれみたいに敵を怖ろしがらぬ勇気がなければならない。おれは、高く、高く、できるだけ高く
原民喜
平和への意志 原民喜 二つの特輯が私の心を惹いた。知識人戦線(個性七月号)と平和の擁護(近代文学八月号)と、これは近頃、最も意義ある特輯だつたが、かうした特輯は今後も絶えず繰返して為されなければならないし、何度繰返しても多すぎるといふことはあるまい。極言すれば戦災死をまぬがれたわれわれにとつて、これこそは最大の、そして最後の課題なのだ。 一九四五年八月六日、
北村透谷
「平和」発行之辞 北村透谷 過ぬる明治二十二年の秋、少数の有志相会して平和会なる者を組織せり。爾来同志を糾合し、相共に此問題を研究し来りしが、時機稍到来し、茲に一小雑誌を刊行して我が同胞に見ゆるの栄を得たるを謝す。 平和の文字甚だ新なり、基督教以外に対しては更に斬新なり。加ふるに世の視聴を聳かすに便ならぬ道徳上の問題なり。然れども凡そ宗教の世にあらん限り、人
長谷川時雨
平塚明子(らいてう) 長谷川時雨 一 らいてうさま、 このほどお体は如何で御座いますか。爽やかな朝風に吹かれるといかにもすがすがしくて、今日こそ、何もかもしてしまおうと、日頃のおこたりを責められながら、私は、貧乏な財袋よりもなお乏しい頭の濫費をしつつ無為な日を送っております。 御あたりはお静かでございますか。田舎での御生活は、どこやら不如意なようでいて、充実
内藤湖南
平安朝の前半期には專ら漢文學が行はれ、後半期には國文學が興つたが、此の國文學が興つたのは漢文學の刺激に依るのである。大體日本の文化は支那文化の刺激によつて發達したのであるが、然し文化を生育すべき素質は初めから日本にあつたので、此の點は他の支那に近い邦々と異つて居る。即ち朝鮮には我が假名の如き諺文があるが、少數の歌謠の外、諺文文學といふものが遂に發達しなかつた
作者不詳
「平家物語」ぬきほ(言文一致訳) 宮本百合子訳 葵の前 (高倉) 其の頃何より優美でやさしいことの例に云い出されて居たのは中宮の御所に仕えて居る局の女房達がめしつかわれて居た上童の中に葵の前と云って陛下の御側近う仕る事がある上童が居た。およびになるほどの御用がなくっても主上は常に御召になって居るので主の女房も召しつかう事が出来ずかえって主の女房が葵の前を御主
岡本綺堂
平家蟹 岡本綺堂 登場人物 官女 玉虫 その妹 玉琴 那須与五郎宗春 旅僧 雨月 官女 呉羽の局 同 綾の局 浜の女房 おしお 那須の家来 弥藤二 ほかに那須の家来。浜のわらべなど (一) 寿永四年五月、長門国壇の浦のゆうぐれ。あたりは一面の砂地にて、所々に磯馴松の大樹あり。正面には海をへだてて文字ヶ関遠くみゆ。浪の音、水鳥の声。 (平家没落の後、官女は零落
幸田露伴
平将門 幸田露伴 千鍾の酒も少く、一句の言も多いといふことがある。受授が情を異にし啄が機に違へば、何も彼もおもしろく無くつて、其れも是もまづいことになる。だから大抵の事は黙つてゐるに越したことは無い、大抵の文は書かぬが優つてゐる。また大抵の事は聴かぬがよい、大抵の書は読まぬがよい。何も申の歳だからとて、視ざる聴かざる言はざるを尚ぶわけでは無いが、嚢を括れば咎
田中貢太郎
福岡県嘉穂郡漆生村に平山と云う処があって、そこに坑夫の一家が住んでいた。家族は坑夫の息子夫婦とその両親の四人であった。 明治末季比、その両親夫婦、即ちお爺さんとお婆さんが、ちょっとした病気で僅かの間に死んでしまった。ところで、その爺さんと婆さんが死んでから間もない時のこと、そこの息子の細君が何かの用事で壁厨を開けたが、開けるなり、 「わ」 と云って外へ飛び出
高頭仁兵衛
平ヶ岳登攀記 高頭仁兵衛 平ヶ岳と鶴ヶ岳 平ヶ岳の記事は従来刊行された地理書には絶無であるから、極めて僭越でかつは大袈裟のようではあるが、自分を主としたこの山の記録とでもいうような事と、自分がこの山に興味を持って、数回の失敗を重ねて、ようやく登攀を試みた筋道を一通り陳べて見ようと思う。 今から十五、六年前に、自分が小出町へ遊びに行った時に、三魚沼は深山地であ
野村胡堂
江戸のよさということを、いまの人は忘れていると思います。江戸というものは、いいものだし、たいしたものでした。 当時、両国にはたいへん猥褻な見世物があって、いまのストリップ・ショーなんか、とても追いつくものではなかったというんですね。 ところが、そこに行くのは、折助とか、やくざとか、田舎から出てきた江戸見物の人たちで、江戸の堅気の人たちは、決してそこに近づかな
野村胡堂
「銭形平次」を書き始めて、もう二十七年になる。自分が生きている間は書きつづけてゆくつもりでいたが、五、六年前から眼疾が急に悪化して、どうしても筆をもつことが不可能になってしまった。二度、三度と手術をし、どうにかして書きつづけたいと努力してみたが、何分にも七十六歳の老体のことゆえ回復もむずかしかったのだろう、最近ではすっかり気力も失ってしまった。 そんなわけで
三島霜川
此の日も周三は、畫架に向ツて、何やらボンヤリ考込むでゐた。モデルに使ツてゐる彼の所謂『平民の娘』は、小一時間も前に歸ツて行ツたといふに、周三は尚だ畫架の前を動かずに考へてゐる。何を考へてゐたかといふと、甚だ漠然としたことで、彼自身にも具體的に説明することは出來ない。難然考へてゐることは眞面目だ、少し大袈裟に謂ツたら、彼の運命の消長に關することである。 『平民
新渡戸稲造
先達中本誌の余白を借りてデモクラシーに関して一言するところがあった。今回計らずもデモクラシーの本家本元なる米国に渡るを好機会として、自分の述べた事が他人の、ことに先輩の説くところとどれほど符合するか、また背馳するかを見たい心掛である。 横浜を出帆する際、親類を見送りに来られた文学博士遠藤隆吉君に甲板上で遇うたら、同君が『社会及国体研究録』の第一号を手渡しつつ
久生十蘭
普賢菩薩のお白象 チャッチャッチキチ、チャッチキチ、 ヒイヤラヒイヤラ、テテドンドン…… 「夏祭だ」 「夏祭だ」 「天下祭でい」 「御用祭だ」 「練って来た、練って来た。あれが名代の諫鼓鶏……」 「お次は南伝馬町の猿の山車」 「日吉鷲平の猿の面。あの山鉾ひとつで四千五百両とは豪勢なものでござります」 ……三番は、平河町の騎射人形、……四番は、山王町の剣に水車
久生十蘭
十六日の朝景色 薄い靄の中に、応挙風の朱盆のような旭がのぼり、いかにもお正月らしいのどかな朝ぼらけ。 出尻伝兵衛、またの名を「チャリ敵」の伝兵衛ともいう、神田鍋町の御用聞。 正月の十六日は、俗にいう閻魔の斎日。 商売柄、閻魔参りなどに行く義理はない。 谷中の方にチト急な用があって、この朝がけ、出尻をにょこにょこ動かしながら、上野山内の五重の塔の下までやってく
久生十蘭
朱房銀の匕首 源内先生は旅姿である。 旅支度と言っても、しゃらくな先生のことだから道中合羽に三度笠などという物々しいことにはならない。薄茶紬の道行に短い道中差、絹の股引に結付草履という、まるで摘草にでも行くような手軽ないでたち。茶筅の先を妙にへし折って、儒者ともつかず俳諧師ともつかぬ奇妙な髪。知らぬ人が見たら医者が失敗って夜逃をする途中だと思うかも知れない。
岡本綺堂
平造とお鶴 岡本綺堂 N君は語る。 明治四年の冬ごろから深川富岡門前の裏長屋にひとつの問題が起った。それは去年の春から長屋の一軒を借りて、ほとんど居喰い同様に暮らしていた親子の女が、表通りの小さい荒物屋の店をゆずり受けて、自分たちが商売をはじめることになったというのである。 母はおすまといって、四十歳前後である。娘はお鶴といって、十八、九である。その人柄や言
野呂栄太郎
拝啓 前略、 その後平田兄、羽仁兄等と相談の結果 各部会を別々に開くと各部に関係のある者が何度も会合のために煩わされるから、もう少し仕事が進行するまでは共同部会にしてはどうかというので、一応全体を次の四部に分けて見ました。 第一部 明治維新史(幕末史、維新変革史) 土屋、羽仁、久保、服部、平野、山田(勝)、山田(盛)、野呂、玉城、長谷川第二部 資
野呂栄太郎
御手紙ありがたく拝見仕りました。結構なる御見舞品まで賜わり御厚情の程感謝申し上げます。早速いただきましたが風味もよく非常に結構でございます。 編集会議にも研究会にもたびたび欠席仕り、何とも申訳ございません。御蔭でようやく熱も下りましたから、分担の分だけは期日通りに脱稿したいと思っております。しかしまだ予後がハッキリいたしませんから年内の上京は不可能だと思いま
野呂栄太郎
後れて申訳ありません。 全体として異議ありません。ただ次の点をもう少し強調する必要はないでしょうか? それは明治維新後の資本の原始的蓄積の現実的過程の特質によって「農業の生産行程における資本主義の発展、資本制大経営、したがって、これに伴う資本主義的階級分化が阻まれ」た点を指摘すると共に、それにもかかわらず、農業生産が直接間接に資本の支配下に従属せしめられ、農
野呂栄太郎
御手紙拝見いたしました。 一、編集人の件、なるべくなら他の講座同様岩波氏にしていただいた方、万事好都合と思いますので、極力そうしてもらうよう交渉すべきだと存じます。岩波氏としては本講座は出筆者の顔ぶれから見て出版法違反にでも問われることがあってはというようなことを懸念されるのだと思いますが、そのような懸念はほとんど杞憂でしょうし、他のものが編集名義人となって
野呂栄太郎
拝復 たびたび御手紙賜わりありがたく存じます。その都度御返事申し上ぐべきところ延引仕り何とも申訳ございません。御蔭でいよいよ第一回配本を了したこと喜びと感謝にたえません。 井汲、逸見両兄の方へは督促の手紙を出しておきましたが、なお積極的に促進するや二十五頃上京して両兄に直々会って後日後れさせぬよう協力することにいたしました。 羽仁兄も丁度来られたので至急脱稿
野呂栄太郎
御手紙拝見いろいろと御尽力感謝します。 御申越しの要項は御忘れになってゆかなかったようです。細川氏の原稿は今月中旬までには必ず脱稿して送るとの確答を得ております。玉城氏の方を至急御督促願います。氏のはすでに一端できた原稿について、小生及び羽仁氏から数度に亘って詳細な批判と指示を与えてあり、三月中にでき上る約束で稿料も前渡ししてあるのですから、幕末史の報告がな