野村胡堂 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
「銭形平次」を書き始めて、もう二十七年になる。自分が生きている間は書きつづけてゆくつもりでいたが、五、六年前から眼疾が急に悪化して、どうしても筆をもつことが不可能になってしまった。二度、三度と手術をし、どうにかして書きつづけたいと努力してみたが、何分にも七十六歳の老体のことゆえ回復もむずかしかったのだろう、最近ではすっかり気力も失ってしまった。 そんなわけで、到底筆をとれないことを覚悟した。あるいは死ぬまで書けないかもしれない、これも天命だろう。 眼を患って、どのように眼が大切なものかが骨身にこたえてわかった。私は視力が薄れてからも人の手を借りず自分で書いてきたが、この頃は一生懸命書いても、字が字の形を成さない。五号活字ぐらいはぼんやりと読めるけれども、八ポとなると読むこともむずかしい。こういう次第でとうとう筆を折らなければならなくなったが、三百八十余篇の「銭形平次」を愛読してきてくださったみなさんに心からお礼を申上げたいと思う。 いざ、眼のために書くことを諦めなければならないとなると、私の脳裏に浮かぶのはやはり失明のために苦しんだ先人たちのことである。ヘンデルは「光とともに天才を失う
野村胡堂
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