幼き恋の回顧
中原中也
幼き恋は 寸燐の軸木 燃えてしまへば あるまいものを 寐覚めの囁きは 燃えた燐だつた また燃える時が ありませうか アルコールのやうな夕暮に 二人は再びあひました―― 圧搾酸素でもてゝゐる 恋とはどんなものですか その実今は平凡ですが たつたこなひだ燃えた日の 印象が二人を一緒に引きずつてます 何の方へです―― ソーセーヂが 紫色に腐れました―― 多分「話の
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中原中也
幼き恋は 寸燐の軸木 燃えてしまへば あるまいものを 寐覚めの囁きは 燃えた燐だつた また燃える時が ありませうか アルコールのやうな夕暮に 二人は再びあひました―― 圧搾酸素でもてゝゐる 恋とはどんなものですか その実今は平凡ですが たつたこなひだ燃えた日の 印象が二人を一緒に引きずつてます 何の方へです―― ソーセーヂが 紫色に腐れました―― 多分「話の
小川未明
正ちゃんのお母さんは、かわいい坊やが、病気になったので、髪もとかさずに心配していました。 お医者さまは、正ちゃんを診察して、 「なるたけ、静かに、寝かしておかなければなりません。」といったので、お母さんは、家に帰ると、ふとんをしいて、正ちゃんを眠らせようとしました。 昨夜から、熱が高かったので、気持ちがいらいらしているとみえて、正ちゃんは、よく眠りませんでし
島崎藤村
一 私の子供が初めて小學校へ通ふやうに成つた其翌日から、私は斯の手紙を書き始めます。昨日の朝、吾家では子供の爲に赤の御飯を祝ひました。輝く燈火の影に夜更しすることの多い都會の生活の中でも、子供ばかりは夜も早く寢、朝も早く起きますから、弟の方も兄と一緒に早く床を離れました。兄は八歳、弟は六歳に成ります。お人好しの兄に比べると弟はなか/\きかない氣で、玩具でも何
正岡子規
極めて幼き時の美はただ色にありて形にあらず、まして位置、配合、技術などそのほかの高尚なる複雑なる美は固より解すべくもあらず。その色すらなべての者は感ぜず、アツプ(美麗)と嬉しがらるるは必ず赤き花やかなる色に限りたるが如し。乳呑子のともし火を見て無邪気なる笑顔をつくりたる、四つ五つの子が隣の伯母さんに見せんとていと嬉しがる木履の鼻緒、唐縮緬の帯、いづれ赤ならざ
上村松園
幼き頃の想い出 上村松園 古ぼけた美 東京と違って、京都は展覧会を観る機会も数も少のうございますが、私は書画や骨董の売立のようなものでも、出来るだけ見逃さないようにして、そうした不足を満たすように心掛けて居ます。そうして、そのような売立なぞを観に参りまして、特に興味を惹かれますのは、評判の呼び物は勿論でございますが、それよりも片隅に放擲されて、参観者の注視か
佐藤春夫
先年、幼児がどこかでうつされて来た急性トラコーマが一家中にひろまって、それは当時、友人F博士の治療ですっかり治っているはずなのに、時折は何かの拍子で眼が渋いような感じがしたり、へんに涙っぽいような場合があって、再発ではないかと神経を病ませる。この間もちょっと、そんな事があったから先年もっともひどい目にあった八歳になる初雄も同じようなことを云い出したので、自分
小野佐世男
幽霊 小野佐世男 1 残暑がすぎ、凉風がさわやかに落葉をさそう頃になると、きまって思い出すことがある。 私はまだ紅顔の美少年(?)だった。その頃、私達一家は小石川の家から、赤坂の新居へ移った。 庭がとても広かった。麻布の一聯隊の高い丘が、苔むした庭の後にそびえ、雑草やくるみの木が、垂れさがるように見える空の上に生い茂っていた。また、丘の下のせいかじめじめとし
牧野信一
わたしはこの四五年来、少くとも一年のうちに二回以上は、全く天涯の孤独者であるかのやうな、そして深い寧ろ憂ひに閉ぢこめられたやうな姿で独り、登山袋に杖を突いて、遠方の景色にばかり見惚れてゐるかのやうな眼を挙げながら、すたすたとその山峡の村へ赴くのが慣ひである。 行先の村は、名称を誌したところで無駄に過ぎない程度の寒村で、いつもわたしは家族の者に向つても、出掛け
坂口安吾
幽霊の凄味の点では日本は他国にひけをとらない。西洋人の生活の中には悪魔が幅をきかしてゐるが、幽霊はあまり顔をださない。悪魔には日本の鬼や狐狸に通ずる一脈の滑稽味と童話的な郷愁的な感情が流れ、今日の知識人の生活の中では、恐怖の対象であるよりも、理知の故郷に住み古した一人の友達の感が深い。 幽霊は悪魔とちがつて、徹頭徹尾凄味あるのみ、甘さやユーモアは微塵もない。
小泉八雲
伯耆の国、黒坂村の近くに、一条の滝がある。幽霊滝と云うその名の由来を私は知らない。滝の側に滝大明神と云う氏神の小さい社があって、社の前に小さい賽銭箱がある。その賽銭箱について物語がある。 今より三十五年前、ある冬の寒い晩、黒坂の麻取場に使われている娘や女房達が一日の仕事を終ったあとで炉のまわりに集って、怪談に興じていた。はなしが十余りも出た頃には大概のものは
田中貢太郎
幽霊の自筆 幽霊の自筆 田中貢太郎 一ぱい張った二十三反帆に北東の風を受けて船は西へ西へ走っていた。初夏の曇った晩であった。暗いたらたらとした海の上には風波の波頭が船の左右にあたって、海蛇のように幾条かの銀鼠の光を走らした。 艫の舵柄の傍では、年老った船頭が一杯機嫌で胡座(あぐら)をかき、大きな煙管(キセル)で煙草を喫(の)みながら舵柄を見て、二人の壮(わか
小川未明
沖の方に、光ったものが見えます。海の水は、青黒いように、ものすごくありました。そして、このあたりは、北極に近いので、いつも寒かったのであります。 光ったものは、だんだん岸の方に近寄ってきました。そして、だんだんはっきりとそれがわかるようになりました。それは、氷山であったのです。 氷山はかなり、大きく、とがった山のように鋭く光ったところもあれば、また、幾人も乗
薄田泣菫
幽霊の芝居見 薄田泣菫 欧洲大戦の時、西部戦線にゐた英軍の塹壕内では、死んだキツチナア元帥が俘虜になつて独逸にゐるといふ噂が頻りにあつた。前線で俘虜になつた独逸兵のなかには、伯林の俘虜収容所で怖しく背の高い元帥の後姿を見かけたといふものが少くなかつた。オウクネエ島附近で溺死した元帥が蘇生つた筈もないが、それでも誰も見た、彼も見たと言ふからには、これもまんざら
田中貢太郎
幽霊の衣裳 田中貢太郎 三代目尾上菊五郎は怪談劇の泰斗として知られていた。其の菊五郎は文化年代に、鶴谷南北の書きおろした『東海道四谷怪談』を木挽町の山村座で初めて上演した。其の時菊五郎はお岩と田宮の若党小平、及び塩谷浪人佐藤与茂七の三役を勤めたが、お岩と小平の幽霊は陰惨を極めたもので、当時の人気に投じて七月の中旬から九月まで上演を続けた。 其の後天保になって
長谷川伸
京都の新京極は食べ物屋の飾りつけよりも、小間物や洋品を商う店の京都色の方が強くくる。 その新京極のチャチな家で夜更けてから飯を食べた――といっても連れは酒飲みだから飲まずにはいなかった。外へ出ると星の光が冴えていた。あしたの朝は屹と霜が深かろう。 「そ、そんな物が現代にあるもんですか、あなたは見掛けによらない非科学的な方だ」 と、Tが神経質な顔に似合わず断乎
相馬御風
幽霊の足 相馬御風 或小学校に於ける手工の時間に、Fといふ教師の経験した話。 その日Fは生徒一同に同じ分量の粘土を与へて、各自勝手な物を作らせて見ようと企てた。生徒は皆大いに喜んで各自思ひ/\に、馬だの牛だの人形だの茄子だの胡瓜だのを作つた。 ところが、中にたゞ一人時間が過ぎても、ぼんやり何か考へ込んでゐて何も作らない生徒があつた。彼はもと/\其の級第一の劣
佐藤春夫
この稿はもと『群像』三月号に『幽明界なし』と題して発表したものであるが、本誌『大法輪』編輯部がその取材に興味を持ったものか、転載を希望して作者の許可を求めた。作者は偶々旧稿を『幽香嬰女伝』と改題して初稿にいささか加筆してやや面目を改めたものがあったのを手交して、ここに再録を承引することとした。 霊魂不滅という説がある。わたくしは必ずしもその説を信奉する者でも
戸坂潤
先ず何よりも始めに幾何学なるものの概観を得ることが必要と思われる。恐らく幾何学には無限の種類があるかも知れない。併し何れも幾何学なる名に於て統一されている以上それを一貫する何ものかがあってそれがその区別を与えているのでなければならぬ。吾々は之を攫むことによって幾何学を分類することが出来る筈である。クラインによれば凡ての幾何学は夫々或る一定の形を持った変換に対
小川未明
ある輝かしい日のことです。父親は、子供の手を引きながら道を歩いていました。 まだ昨日降った雨の水が、ところどころ地のくぼみにたまっていました。その水の面にも、日の光は美しく照らして輝いていました。 子供は、その水たまりをのぞき込むように、その前にくると歩みを止めてたたずみました。 「坊や、そこは水たまりだよ。入ると足が汚れるから、こっちを歩くのだよ。」と、父
久坂葉子
幾度目かの最期 久坂葉子 熊野の小母さんへ。 あなたには四、五年も昔から、よくお便りしてます。けれど、こんな殺風景な紙に、宿命的な味気ない字を書くことは、はじめてです。いつも、信州の紙とか、色のついたアート紙に、或いはかすれた筆文字で、或いは、もっと、面白くきれいな字――いやこれは、おこがましいかな。でも、あなたは、私の字を好んでくれました。――で、お便りし
久坂葉子
熊野の小母さんへ。 あなたには、四五年も昔から、よくお便りしてます。けれど、こんな殺風景な紙に、宿命的な味気ない字を書くことは、はじめてです。いつも、信州の紙とか、色のついたアート紙に、或いはかすれた筆文字で、或いは、もっと、面白くきれいな字――いやこれは、おこがましいかな。でも、あなたは、私の字を好んでくれました。――で、お便りしたものです。何故、この紙を
宮沢賢治
ポラーノの広場 宮沢賢治 前十七等官 レオーノ・キュースト誌 宮沢賢治 訳述 そのころわたくしは、モリーオ市の博物局に勤めて居りました。 十八等官でしたから役所のなかでも、ずうっと下の方でしたし俸給もほんのわずかでしたが、受持ちが標本の採集や整理で生れ付き好きなことでしたから、わたくしは毎日ずいぶん愉快にはたらきました。殊にそのころ、モリーオ市では競馬場を植
宮沢賢治
時、一千九百二十年代、六月三十日夜、 処、イーハトヴ地方、 人物、キュステ 博物局十六等官 ファゼロ ファリーズ小学校生徒 山猫博士 牧者 葡萄園農夫 衣裳係 オーケストラ指揮者 弦楽手 鼓器楽手 給仕 其他 曠原紳士、村の娘 多勢、 ベル、 人数の歓声、Hacienda, the society Tango のレコード、オーケストラ演奏、甲虫の翅音、 幕あ
豊島与志雄
広場のベンチ 豊島与志雄 公園と言うには余りに狭く、街路に面した一種の広場で、そこの、篠懸の木の根本に、ベンチが一つ置かれていた。重い曇り空から、細雨が粗らに落ちていて、木斛の葉も柳の葉も、夾竹桃の茂みも、しっとり濡れていたが、篠懸の葉下のベンチはまだ乾いていた。 そのベンチに、野呂十内が独り腰掛けていた。手提鞄を膝に置いて両手で抱え、帽子の縁を深く垂らし、