恐るべき親権
中谷宇吉郎
昨年歸國する時に、上の娘二人を、大學の寄宿舍に入れて來た。 アメリカでは、子供が二十一歳以上になると、親は學資の心配をしないというのが、社會通念になっている。皆奬學金をもらうか、アルバイトをして、自力で大學へ通う。大學生の九割以上は、そういう學生である。もっとも少しは親からも貰うが、それは「お小遣を貰う」という感じである。 ところで歸って暫くしたら、寄宿舍か
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中谷宇吉郎
昨年歸國する時に、上の娘二人を、大學の寄宿舍に入れて來た。 アメリカでは、子供が二十一歳以上になると、親は學資の心配をしないというのが、社會通念になっている。皆奬學金をもらうか、アルバイトをして、自力で大學へ通う。大學生の九割以上は、そういう學生である。もっとも少しは親からも貰うが、それは「お小遣を貰う」という感じである。 ところで歸って暫くしたら、寄宿舍か
小酒井不木
恐ろしき贈物 小酒井不木 一 ニューヨーク市、西第七十街のあるアパートメントに、グレース・ウォーカーという四十前後の女が住んでいた。おもて向は極めて静かな生活をしていたけれど、警察はかねてから彼女に目をつけていた。というのは彼女は一口にいえば待合のようなものを営んで、多くの良家の子女に恥かしい行為を勧めていたからである。ところが、あるときヴァイオレット・リオ
海野十三
「一体どうしたというんだろう。大変に遅いじゃないか」 眉を顰めて、吐きだすように云ったのは、赭ら顔の、でっぷり肥った川波船二大尉だった。窓の外は真暗で、陰鬱な冷気がヒシヒシと、薄い窓硝子をとおして、忍びこんでくるのが感じられた。 「ほう、もう八時に二分しか無いね。先生、また女の患者にでも掴ってんのじゃないか」 腕時計の硝子蓋を、白い実験着の袖で、ちょいと丸く
神西清
大いなる熱が私を解放した。私は再び鎔和された人間だ。いま霧のなかから静かに私の前にたち現れるのは、私の曾て知らなかつた新たな廻転をもつ世界である。その世界にはまだ何一つとして名のついてゐる物はない。この私が多分すべてを名づける者になるであらう。が今のところ私はただ、眼の前にひろがつてゆく此の限りない無秩序を愉しい期待の眸で眺めるだけだ。……いま私は、限りない
堀辰雄
彼はすやすやと眠つてゐるやうに見えた。――それは夜ふけの寢臺車のなかであつた。…… 突然、さういふ彼が片目だけを無氣味に開けた。 さうして自分の枕もとの懷中時計を取らうとして、しきりにその手を動かしてゐる。しかしその手は鐵のやうに重いのだ、まだその片目を除いた他の器官には數時間前に飮んだ眠り藥が作用してゐるらしいのである。そこで彼はあきらめたやうにその片目を
堀辰雄
恢復期 堀辰雄 第一部 彼はすやすやと眠っているように見えた。――それは夜ふけの寝台車のなかであった。…… 突然、そういう彼が片目だけを無気味に開けた。 そうして自分の枕もとの懐中時計を取ろうとして、しきりにその手を動かしている。しかしその手は鉄のように重いのだ。まだその片目を除いた他の器官には数時間前に飲んだ眠り薬が作用しているらしいのである。そこで彼はあ
太宰治
恥 太宰治 菊子さん。恥をかいちゃったわよ。ひどい恥をかきました。顔から火が出る、などの形容はなまぬるい。草原をころげ廻って、わあっと叫びたい、と言っても未だ足りない。サムエル後書にありました。「タマル、灰を其の首に蒙り、着たる振袖を裂き、手を首にのせて、呼わりつつ去ゆけり」可愛そうな妹タマル。わかい女は、恥ずかしくてどうにもならなくなった時には、本当に頭か
富永太郎
Honte ! honte ! 眼玉の 蜻蛉 わが身を 攫へ わが身を 啖へ Honte ! honte ! 燃えたつ 焜爐 わが身を 焦がせ わが身を 鎔かせ Honte ! honte ! 干割れた 咽喉 わが身を 涸らせ わが身を 曝らせ Honte ! honte ! おまへは 泥だ ●図書カード
宮島資夫
七月初めの日が頭の上でカンカン照りはじめると、山の中は一しきり、ソヨリとした風もなくなっていた。マンゴク網を辷り落る鉱石の響きも、トロッコのきしる音も、すべてが物憂くだらけ切っていた。草木の葉はぐんなりと萎れて、ただ山中一杯にころがっている岩のかけらや硅石の破片が、燃えるような日の光りに焦がされてチカチカと、勢いよく輝いているばかりであった。 坑外で働いてい
豊島与志雄
恩人 豊島与志雄 年毎に彼の身体に悪影響を伝える初春の季節が過ぎ去った後、彼はまた静かなる書斎の生活をはじめた、去ってゆく時の足跡をじっと見守っているような心地をし乍ら。木蓮の花が散って、燕が飛び廻るのを見守っては、只悠久なるものの影をのみ追った。然しその影の淡々しいのを彼の心が見た。 前日からの風が夜のうちに止んで、朗らかな朝日の影が次第に移っていった。そ
佐々木邦
私が入学した頃の卒業生はビリコケでも羽が生えて飛んだ。多少成績が好いと引っ張り凧の形だった。首席で出た従兄の如きは口があり過ぎて選択に迷った。 「兎に角面会丈けはしてやらないと推薦者の感情を害するからね」 と言った調子で、頼むよりは断るのに骨を折ったものである。 然るにその翌年からソロ/\売れ口が悪くなった。続いて年々余るという噂を耳にしたが、此方の卒業まで
加能作次郎
恭三の父 加能作次郎 手紙 恭三は夕飯後例の如く村を一周して帰って来た。 帰省してから一カ月余になった。昼はもとより夜も暑いのと蚊が多いのとで、予て計画して居た勉強などは少しも出来ない。話相手になる友達は一人もなし毎日毎日単調無味な生活に苦しんで居た。仕事といえば昼寝と日に一度海に入るのと、夫々故郷へ帰って居る友達へ手紙を書くのと、こうして夕飯後に村を一周し
岸田国士
候補作品九篇のうち、私が最も推賞に値すると思つたのは、庄野潤三の「流木」と小島信夫の「吃音学院」であつた。 委員会の席上、広池秋子の「オンリー達」を支持する声が二三あつたけれども、私は賛成しかねた。 庄野潤三は既に、単行本も出てゐる新進作家で、私のみるところその力量はゆうに芥川賞受賞の水準に達してゐる。しかし、この「流木」一篇を特にこの有望作家の秀作と認める
水野仙子
悔 水野仙子 ある地方の郡立病院に、長年看護婦長をつとめて居るもとめは、今日一日の時間からはなたれると、急に心も體も弛んでしまつたやうな氣持ちで、暮れて行く廊下を靜かに歩いてゐた。 『おや、降つてるのかしら。』 彼女は初めて氣がついたやうに窓の外を見て呟く。冷え/″\として硝子のそとに、いつからか糸のやうに細かな雨が音もなく降つてゐる、上草履の靜かに侘びしい
宮本百合子
皆様の現場録音を拝見して、きょうの真面目な若い女性の心持に同感いたしました。いくつかの感想もあります。女子職員の声に出されていた質問とその答について順々にとりあげてゆきましょう。 (1) 今年度の計画という大きな質問には、どなたもできるかできないかわからない答をさけていられます。ほんとに、私たちは自分の心の中でだけ希望しているけれど、実現のたしかでもないこと
中島敦
寒蝉敗柳に鳴き大火西に向かいて流るる秋のはじめになりければ心細くも三蔵は二人の弟子にいざなわれ嶮難を凌ぎ道を急ぎたもうに、たちまち前面に一条の大河あり。大波湧返りて河の広さそのいくばくという限りを知らず。岸に上りて望み見るときかたわらに一つの石碑あり。上に流沙河の三字を篆字にて彫付け、表に四行の小楷字あり。 八百流沙界 三千弱水深 鵞毛飄不起 蘆花定底沈 ―
中島敦
昼餉ののち、師父が道ばたの松の樹の下でしばらく憩うておられる間、悟空は八戒を近くの原っぱに連出して、変身の術の練習をさせていた。 「やってみろ!」と悟空が言う。「竜になりたいとほんとうに思うんだ。いいか。ほんとうにだぜ。この上なしの、突きつめた気持で、そう思うんだ。ほかの雑念はみんな棄ててだよ。いいか。本気にだぜ。この上なしの・とことんの・本気にだぜ。」 「
梶井基次郎
吉田は肺が悪い。寒になって少し寒い日が来たと思ったら、すぐその翌日から高い熱を出してひどい咳になってしまった。胸の臓器を全部押し上げて出してしまおうとしているかのような咳をする。四五日経つともうすっかり痩せてしまった。咳もあまりしない。しかしこれは咳が癒ったのではなくて、咳をするための腹の筋肉がすっかり疲れ切ってしまったからで、彼らが咳をするのを肯じなくなっ
ドイルアーサー・コナン
それなりに種々雑多な記録をひと通り思い浮かべて、我が友人シャーロック・ホームズ特有の知性をいくらか説明しようと思うのだが、今、私は悩んでいる。希望を完全に満たしてくれるような具体例がなかなか見つからないのだ。というのも、ホームズが分析的推理を見事に発揮した事件や、その独特の捜査方法の真価を見せつけたような事件というのは、しばしばその真相そのものがあまりにも薄
牧野信一
一郎は今迄しきりに読んでゐた書物から眼を放すと、書斎の窓を開いて庭を眺めた。――冬枯の庭は、どの木も寒さうに震へてゐるかのやうに見えた。南天の実の紅色だけが僅かな色彩で、冬の陽に映えてゐるばかりだつた。空はよく晴れてゐて、時たま何処かで百舌の声などがキーキーツと絹地でも引き裂くやうに鳴き渡ると、空の彼方までそれが長い糸のやうな余韻を残して消えて行つた。風もな
幸田露伴
題して悦楽という、その初めの章に悦を説き、次の章に楽を説くことによる。二章の内容、皆学問を勧めるものである。二章に次いで不慍・無益の二章を記す。その内容も勧学であり。四章の文、言葉づかいに洗練さを欠くといえど趣旨は親切、反復を厭わず、人々を学に志させようとする。聖人の訓え(聖訓)に拠り所を求め、出所を注記する。これ吾が言葉に私心無くして根拠の有ることを示し、
深瀬基寛
昨日は老人の日でした。その今日、停年講義をいたしますことはまんざら無意味でもないと存じます。昨日は老人の日であると同時に勤評ストの日でもありました。それから今日は今日で、私の家の近くまで市電の新線が開通しまして、私の家から大学までの通勤が何十年振りに大へん便利になりましたが、あいにくと明日から私は学校に来なくてもよくなりました。 さて今日の講義ですが、私は何
マンパウル・トーマス
彼は机から――例の小さいこわれそうな書物台から立ちあがって、絶望した人のごとく立ちあがって、首を垂れたまま、部屋の反対の隅にある煖炉のほうへ歩いて行った。煖炉の円柱のように長くすらりとできている、炉瓦のところに両手をあててみたが、なにしろもう真夜中はとうに過ぎているので、炉瓦はほとんど冷えきっていた。そこで、求めていた小さな快感を味わいそこねた彼は、炉瓦に背
野村胡堂
「お願いで御座いますが…………」 振り返って見ると、同じ欄干にもたれた、乞食体の中年の男、鳴海司郎の顔を下から見上げて、こう丁寧に申します。 春の夜の厩橋の上、更けたという程ではありませんが、妙に人足が疎らで、風体の悪い人間に声をかけられると、ツイぞっとするような心淋しい晩です。 見ると、人品骨格満更の乞食とも思えませんが、お釜帽の穴のあいたのを目深に、念入