海阪
北原白秋
三浦三崎 大正十二年二月一日午後、何処といふあてもなくアルスの牧野君と小田原駅から汽車に乗つた。その車室に前田夕暮君が居た。何処へ行くと訊かれたのでまだわからぬと答へた。君はと云つたら大島へ行くつもりだつたけれど汽船に乗り遅れたので引返すところだと云つた。ぢやあ一緒に何処かへ行かう、それもおもしろいと云ふ事になつた。で結局三崎行ときめて、横須賀へ出た。出て見
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北原白秋
三浦三崎 大正十二年二月一日午後、何処といふあてもなくアルスの牧野君と小田原駅から汽車に乗つた。その車室に前田夕暮君が居た。何処へ行くと訊かれたのでまだわからぬと答へた。君はと云つたら大島へ行くつもりだつたけれど汽船に乗り遅れたので引返すところだと云つた。ぢやあ一緒に何処かへ行かう、それもおもしろいと云ふ事になつた。で結局三崎行ときめて、横須賀へ出た。出て見
寺田寅彦
海陸風と夕なぎ 寺田寅彦 昼間陸地の表面に近い気層が日照のためにあたためられて膨張すると、地上一定の高さにおいては、従来のその高さ以下にあった空気がその水準の上側にはみ出して来るから、従ってそこの気圧が高くなる。すなわち同じ高さの海上の気層に比べて圧が高くなるから、この層の空気は海に向かって流れる。この流れが始まると、陸地の表面では上層の空気が他処へ流出する
久生十蘭
ルイ十八世復古政府の第三年、仏領西亜弗利加の海岸で、過去にもなく、将来にもあろうとも思えぬ惨澹たる海難事件が起った。 半世紀の間見捨てられていた植民地を再建するため、セネガル河口のサン=ルイ島に行く新任の総督、総督府の官吏、書記、植民地附属の司祭、土木技師、主計、酒保係、地方人の入植団、細君と子供達、植民地警備の歩兵約二個中隊を乗せたラ・メデュウズという三檣
坂口安吾
波の上に夜が落ちる。海に沿ふた甃の路に靄の深い街燈の薄明り、夜の暗色と一緒に、噎つぽい磯の匂ひが、急にモヤモヤした液体のやうに、灯のある周囲に浮きながら流れはじめる。ときどき、外国の船員が、影と言葉を置き去りにして、闇の中へ沈没しながら紛れてしまふ。 黄昏が下りると、僕はこの路で、自分でも良くは知らない何か思案を反芻しながら、一日に一ぺんづつ家路を辿つた。鮎
北大路魯山人
春の海はひねもすのたりのたりとしているそうである。 夏の海はつよい太陽の光をはねかえして輝き渡る。海も光るが、沖の一線にもくもくと盛り上った入道雲も輝く、空も輝く、海に遊ぶ人々の肌も輝く。 秋の海は、夫を失った夫人のたたずまいのようにさびしい。 それから、冬の海は、かたくなに黙っているかと思うと、時たま心の底から怒りを発した如くに怒号する。逆浪は光をかんで暗
三木清
新年お目出度う存じます。去年はハイデルベルクで迎へた正月を、今年はマールブルクで迎へました。大晦日の夜には悪霊を追払ふと云ふ意味で、昔独逸では戸外に盛んに発砲する習慣があつたさうです。今でも昔気質の人はこの夜十二時が打つと同時に、高い椅子の上から飛び降りると云ひます。新しい年の中へ勢よく飛び込むと云ふ意味ださうです。私は歳晩にあつて数年前に作つたひとつの歌を
牧野信一
何故現在の住所を書いて寄さないのか? と屡々汝に云はれるが、汝との手紙が一回往復される間には大概予の居住は変つてしまふのだ! あれ以来予は既に三個所も居を移してゐる、いつも田舎の母家を予の宛名にはしてゐるが。哀れな母家は当分あの儘で汝も知つてゐるあの田舎に、形こそ違つたが存続するだらう。予も何時其処に帰るかも解らない。母家が存続する限り汝は、予の寓居を知りた
小川未明
それは、ここからは見えないところです。 そこには黒い、黒い河が流れています。どうしたことか、その河の水は真っ黒でありました。河が真っ黒であったばかりでなく、河原の砂もまた真っ黒でありました。そして、その河は音もたてずに、また真っ黒な大きな森の中をくぐって、いずこともなく流れているのでありました。 空の色は、夜ともつかず、また昼ともつかずに、うす暗くぼんやりと
牧逸馬
ブライトンと言えば、倫敦を控えて、英国第一の海岸の盛り場である。 殊に週末旅行に持って来いのところから、日曜が賑う。 この三月二十九日も、日曜日だった。 海の季節としては、すこし早過ぎるが、ちょうど復活祭のお休みとかち合ったのと、何しろお天気がいい。英吉利のこの時候は、大抵嫌な氷雨が降り続くのだが、今日はからりと晴れ渡って、微笑する海だ。潮のにおいを運んで来
正宗白鳥
銀座の裏通りに、和洋何れともつかぬせゝこましい二階家がある。壁の柱も汚れて、外から見ると寢ぼけてゐるやうに見える。二階は通信社で、階下は鞄屋。鞄屋は小さいながら老舖で中々繁盛してゐる。通信社は創業まだ日淺く、萬事整頓しないが、活氣は充滿してゐる。社員凡て十數人。 毎日十二時近くなると、細い谷のやうな所の危かしい階子段に、靴や下駄の音が騷々しく續く。その音の加
金森徳次郎
私は検察のことは全然存じません。いろんなことを学問その他の面からやりました。然し、幸か不幸か検察に関することは何等の経験も知識もございません。それでは何のために出たかというとその理屈は別といたしまして、心の中は非常にやましいのでございます。知らずして言う、これは非常に悪いことです。私は正義をささえるには涙をもつてせよということでございますが、社会正義は冷たい
野村胡堂
江戸川乱歩氏が盛んに売り出そうとしている頃、それは確か関東大震災の翌年あたりであったと思う。報知新聞の応接間で初めて逢って、私は「面白い探偵小説を書こうとするなら黒岩涙香を研究すべきではあるまいか、今の人は涙香を忘れかけて居るが、この人の話術は古今独歩で、筋を面白く運ぶこと、人物を浮出させること、複雑な事件を書きこなして行く技倆に至っては、全く比類もないもの
田中貢太郎
蒲留仙 五十前後の痩せてむさくるしい容をしている詩人、胡麻塩の長いまばらな顎髯を生やしている。李希梅 留仙の門下、二十五、六の貴公子然たる読書生。葉生 浮浪人、二十六、七の背のひょろ長い髪の赤茶けた碧い眼の青年。村の男旅人 甲、乙。 山東省川の某山村の街路にある涼亭。それは街路の真中に屋根をこしらえ、左右の柱に添えて石台を置いて腰掛けとしたもので、その中
寺田寅彦
涼味数題 寺田寅彦 涼しさは瞬間の感覚である。持続すれば寒さに変わってしまう。そのせいでもあろうか、暑さや寒さの記憶に比べて涼しさの記憶はどうもいったいに希薄なように思われる。それはとにかく、過去の記憶の中から涼しさの標本を拾い出そうとしても、なかなか容易に思い出せない。そのわずかな標本の中で、最も古いのには次のようなものがある。 幼い時のことである。横浜で
幸田露伴
吾が友といつては少し不遜に當るかも知れないが、先づ友達といふことにして、淡島寒月といふ人は實に稀有な人であつた。やゝもすれば畸人の稱を與へたがる者もあるが、畸人でも何でもない、むしろ常識の圓滿に驚くばかり發達した人で、そして徹底的に世俗の眞實が何樣なものであるかといふことを知盡した人であつた。しかも多くの人は苦勞をしたり困難に出會つたり、痛い思や辛い目を見た
中谷宇吉郎
先日、日田へ行く機会があったので、広瀬淡窓先生の旧屋、秋風庵を訪ねた。 広瀬淡窓の名前は、前から聞いていたが、機会がなくて、今までその人となりや教育方針のことなどは何も知らなかった。それで庵主古川老のお話は、非常に興味が深く、また大いに啓発されるところがあった。 門弟四千名、その中からは、高野長英、大村益次郎、清浦奎吾というような人々が出ていることも、もちろ
佐藤垢石
淡紫裳 佐藤垢石 この一文は昭和十四年四月、京城日報社の招きにより、将棋の名人木村義雄氏と共に、半島の各地を歩いた記録である。 一 朝鮮半島の幹線は、いま複線工事をしているので、三十分以上も遅れて京城へ着いた。駅のフォームに婦人団体、女学生団などが、二、三百人も堵列している。これは、支那の前線から帰ってきた看護婦たちを出迎えているのだ。私たちの出迎え人も山の
竹内勝太郎
一、地元踏査 一月十日雪の後の睛れやかな明石海峽を渡つて洲本へ上つた。同行三人、榊原紫峰君と青年畫家の片山君。とつつきに遊女町があるのも古い港の情趣であらう。既に夕闇が迫つゐるので外出を斷念した。地圖をひろげて明日の踏査のプランを考へ、曉鐘成編「淡路國名所圖會」その他を調べて二三準備をするにとどめた。 同夜は宿を頼んだ同好の士島醫學士の厚意に依つて、特に三條
牧野信一
病弱者、遊蕩児、その他でも行末に戦人としての望みが持てさうもない子息達は凡て離籍して近隣の漁家や農家へ養子とするのが、昔その城下町の風習だつた。だが桑原家の主人は、そんな理由もなかつた長男を浦賀町の漁家へ、次男を風祭村の農家へ養子として片づけ、三女の園に自分の弟の息子を迎へて家系を継がせる筈だつた。その主人は桑原家の二度目の養子で、子息達は三人ながら彼の実子
原民喜
潔が亡くなってから彼是一年になる。露子は彼から感染されて居た病気がこの頃可也進んで行った。早くから澄川病院に入院する様に父母を始めみんな勧めたが、潔のもと居た病院ではあるし、露子は気が進まなかった。そんな風に病勢をずるずる引伸して行くうちに、寒に入って凍てつくやうな日々が続いた。 ある日、露子は到頭喀血した。血の色を視ると、急に彼女は周章て出した。居ても立っ
林芙美子
淪落 林芙美子 わたしは、家のひとたちには無断で東京へ出て来た。終戦となつて間もなく、わたしの村へ疎開して来ていた東京の人達はあわてゝみんな東京へかえつてしまつた。田舎で一生を暮すような事を云つていた人達のくせに、戦争が済むと、本田さんも、山路さんもみんな東京へ戻つてしまつた。わたしは、東京と云うところはそんなにいゝところかと思つて、一度、東京をみたいと思つ
牧野信一
「もう少し愛があれば、誰もこんなところに落ち込みはしないのだ。」 これが、この物語の主題である。「パンドラの箱」は見損つたが、次のルイズ・ブルツクスものと聞いて、ブルツクスは常々僕の西洋映画女優中の最も好きな女優で――余談を許したまへ、僕の田舎の書斎の壁には、彼女のために二つの額ぶちが備へられてあり、その一つの小さい丸額には彼女の半身の素顔が収まつて、時々僕
久生十蘭
沼の多い雪の平原のむこうにペテルブルグの円屋根や尖塔が輝き、空のはてはフィンランドのほうへ低く垂れている。 一九一七年十一月、顔まで泥をはねあげた赤衛軍の一団が金色の象形文字や帝室の鷲のついたツァルスコイエ・セロの灰色の拱門をぬけ、降り積んだ雪を踏みながら重苦しそうに大通のほうへ行進して行く。弾薬車をつけた砲車や武装した労働者を満載したトラックがめまぐるしく
坂口安吾
淪落の青春 坂口安吾 石塚貞吉が兵隊から帰ってきたころは、日本はまったく変っていた。彼の兵隊生活は捕虜時代も数えて八年にわたり、ソ満国境から北支、南支、仏印、フィリッピン、ビルマ、戦争らしい戦争はビルマだけ、こゝではひどい敗戦で逃げまわっているうちに終戦、捕虜になった。彼が故国へ帰ってきたのは、終戦後一年半も後のことで、おぼろげながら故国の様子も伝わっており