祖父の書斎
宮本百合子
祖父の書斎 宮本百合子 向島の堤をおりた黒い門の家に母方の祖母が棲んでいて、小さい頃泊りに行くと、先ず第一に御仏壇にお辞儀をさせられた。それから百花園へ行ったり牛御前へ行ったりするのだが、時には祖母が、気をつけるんだよ、段々をよく見て、と云って二階へつれてあがった。いつも使っていない二階は不思議な一種の乾いた匂いが漂っていて、八畳の明るい座敷の方から隣の小部
공개저작물 세계 지식 라이브러리
宮本百合子
祖父の書斎 宮本百合子 向島の堤をおりた黒い門の家に母方の祖母が棲んでいて、小さい頃泊りに行くと、先ず第一に御仏壇にお辞儀をさせられた。それから百花園へ行ったり牛御前へ行ったりするのだが、時には祖母が、気をつけるんだよ、段々をよく見て、と云って二階へつれてあがった。いつも使っていない二階は不思議な一種の乾いた匂いが漂っていて、八畳の明るい座敷の方から隣の小部
小野梓
本校の恩人大隈公、敬賓及び本校諸君、余の不学短識を以て職に本校の議員に列し、その員に加わるは、甚だ僭越の事なり。然りと雖、本校の恩人大隈公は余を許してその末に加わらしめ、校長・議員・幹事・講師諸君も亦、甚だ余を擯斥せざるものの如し。これを以て余は自から吾が不学短識を忘れ、妄りにその員に具われり。唯余や不学短識、本校に補う所なかるべし(否々)。然れども既に隈公
牧野信一
麓の村から五哩あまり、馬の背で踏み入る森林地帯の山奥――苔むした岩々の間を、隠花植物の影を浮べて、さんさんと流れる谿川のほとりに営まれた伐木工場の丸木小屋の事務所に、その頃私はアメリカ生れのフロラと共に働いてゐました。私達の夫々の父親達の共同の仕事だつたからです。たしか、私が、文科の大学生活を終へた同じ年のことで、何故か私は文学よりも、哲学に憧れを寄せはぢめ
堀辰雄
室生さんのこの頃のお仕事ぶりは、私などのやうなずつと昔からの側近者にとつても、本當に驚嘆の他はありませぬ。立派なお仕事が次から次へとお出來になる、――その何と云ひますか、製作力の旺盛なことは、それもただはげしいと云ふばかりでなく、實によくコントロオルのとれてゐることは、作家として實にいい生活をなさつていらつしやるからだと思ひます。――私などがふだん接してその
田中貢太郎
漁師の勘作はその日もすこしも漁がないので、好きな酒も飲まずに麦粥を啜って夕飯をすますと、地炉の前にぽつねんと坐って煙草を喫んでいた。 「あんなにおった鯉が何故獲れないかなあ、あの山の陰には一疋や二疋いないことはなかったが、一体どうしたんだろう」 その夜は生暖な晩であった。地炉に焚く榾の火が狭い荒屋の中を照らしていた。 「二尺位ある二疋の鯉……二尺位の鯉が二疋
田中貢太郎
神仙の実在を信じて「神仙記伝」と云う書物を編輯していたと云う宮中掌典の宮地嚴夫翁が明治四十三年、華族会館で講演した講演筆記の写しの中から得た材料によって話すことにする。この話の主人公河野と云うのは宮地翁門下の一人であった。河野の名は久、通称は虎五郎、後に俊八とも云った。道術を修めるようになってから至道と云う号を用いていた。もと豊後の杵築の藩士で、大阪中の島に
中谷宇吉郎
前著『日本のこころ』の中に、露伴先生の『仙書参同契』の解説をした文章を載せておいた。その中で、古代東洋の神仙思想の精髄は、現代の科学と矛盾するものではなく、むしろ啓示を与えることも有り得るだろうという意味のことを書いた。 その一つの例として、デデキントの連続の理論と、魏伯陽の神仙道とを、比較してみよう。現代の物理学はもちろん哲学までも、近代数学におぶさってい
津田左右吉
今日に伝わっている我が国の最古の史籍たる『古事記』と『日本書紀』との巻頭にはいわゆる神代の巻という部分がある。『古事記』は和銅五年(712 A.D.)『日本書紀』は養老四年(720 A.D.)に出来たもので、何れも八世紀に入ってからの編纂であるが、神代の巻などは、もっと古くから伝えられていた材料によったものである。ここにその詳しいことを説いている遑はないが、
マンパウル・トーマス
ミュンヘンは輝いていた。この首都の晴れがましい広場や白い柱堂、昔ごのみの記念碑やバロック風の寺院、ほとばしる噴水や宮殿や遊園などの上には、青絹の空が照り渡りながらひろがっているし、そのひろやかな、明るい、緑で囲まれた、よく整った遠景は、美しい六月はじめのひるもやの中に横たわっている。 小路という小路には、鳥のさえずりとひそかな歓呼が聞える。――そしてほうぼう
小川未明
あるところに、きわめて仲の悪い百姓がありました。 この仲の悪い甲と乙とは、なんとかして甲は乙を、乙は甲をうんとひどいめにあわしてやりたいと思っていました。けれど、なかなかそんなような機会はこなかったのであります。 ある年の夏の日のことでありました。幾日も幾日も、天気ばかりがつづいて、雨というものがすこしも降りませんでした。そして、諸所方々の水が涸れてしまって
古川緑波
久しぶりで、神戸の町を歩いた。 此の六月半から七月にかけて、宝塚映画に出演したので、二十日以上も、宝塚の宿に滞在した。 撮影の無い日は、神戸へ、何回か行った。三の宮から、元町をブラつくのが、大好きな僕は、新に開けたセンター街を抜けることによって、又、たのしみが殖えた。 センター街は然し、元町に比べれば、ジャカジャカし過ぎる。いささか、さびれた元町であるが、僕
萩原朔太郎
あしきおこなひをする勿れ われはやさしきひとなれば よるも楊柳の木影にうち伏し ひとり居てダビテの詩をうたひなむ われは巡禮 悲しき旅路にあるとも わが身にそへる星をたのみて よこしまの道をな歩みそ たとしへなく寂しけれども よきひとはみなかくある者ぞかし われはいとし子 み神よ、めぐみをたれさせ給へ ●図書カード
豊島与志雄
神棚 豊島与志雄 霙交りの雨が、ぽつりぽつりと落ちてくる気配だった。俺はふと足を止めて、無関心な顔付で、空を仰いでみた。薄ぼんやりした灰色の低い空から、冷い粒が二つ三つ、頬や鼻のあたりへじかに落ちかかってきて、その感じが、背筋を通って足先まで流れた。 「愈々やってきたな。」 ふふんという気持で俺は呟いたが、その気持がはたと行きづまって、一寸自分でも面喰った。
折口信夫
こんなに立派な本が出来たのですから、私の序文など必要がない訣です。たゞ、著者への親しみが、何か言はせずに措かないのです。 かぐらと言ふ語の解釈は、西角井さんにも出来てゐると思ひますが、猶少しばかり申し添へて置いた方が、便利かと思ひます。普通世間の人が言うてゐる解釈は、私たちを刺戟しませんから、こゝに並べる事を止めます。端的に言ふと、日本の神座に移動的なものが
折口信夫
日本の神道に、最重大な意味をもつてゐる呪法の鎮魂法が芸能化した第一歩が神楽だと思ひますから、どうしても、日本の芸能史に於ては此を第一に挙げるべきでせう。その点であんたが此の問題に第一指を触れられたのは見識があつたと思ひます。 あんた自身もさうでせう、一緒にやつて来た私もつく/″\感ずることですが、すべての芸能に対してもさうだつたやうに、殊に神楽では、我々の考
折口信夫
神楽と言ふ名は、近代では、神事に関した音楽舞踊の類を、漠然とさす語のやうに考へてゐる。さう言ふ広い用語例に当るものとして、神遊びと言ふ語があつたのである。一体日本古代の遊びとか舞ひとか言はれるものには、鎮魂の意義が含まれてゐる。「神遊」は、神聖な鎮魂舞踊とか、或は神自ら行ふ舞踊とか言ふ意味らしいのである。其神遊びの一種として、平安朝の中頃から宮廷に行はれ始め
水野仙子
神樂阪の半襟 水野仙子 貧といふものほど二人の心を荒くするものはなかつた。 『今日はお精進かい?』とでも、箸を取りかけながら夫がいはうものなら、お里はそれが十分不足を意味してるのではないと知りながら、 『だつて今月の末が怖いぢやありませんか。』と、忽ち怖い顏になつて聲を荒だてる。これだけ經濟を爲し得たといふ消極的な滿足の傍、夫に對してすまないやうな氣の毒のや
下村千秋
むかし、鳥取のある町に、新しく小さな一軒の宿屋が出来ました。この宿屋の主人は、貧乏だったので、いろいろの道具類は、みんな古道具屋から買い入れたのでしたが、きれい好きな主人は、何でもきちんと片づけ、ぴかぴかと磨いて、小ぎれいにさっぱりとしておきました。 この宿屋を開いた最初のお客は、一人の行商人でした。主人は、このお客を、それはそれは親切にもてなしました。主人
チェスタートンギルバート・キース
ブラウン神父の数々の冒険を記録しておきながら、この人が一度は重大な醜聞に巻きこまれたことがあるのを認めないでおくのは公平でなさそうだ。ブラウンの名前には汚点がついていると言う人が、おそらく坊さん自身のお仲間にさえ、いまだにあるくらいだからである。事が起つたのは、絵のように美しいメキシコの路傍にある、あとで明らかになるように、かなり評判の悪い旅館の中であつた。
坂口安吾
神サマを生んだ人々 坂口安吾 二号の客引き 大巻博士が途方にくれながら温泉都市の海岸通りを歩いていると、ポンと背中をたたいた者がある。 「大巻先生じゃありませんか」 振向いてみると、五十がらみの宗匠然とした渋いミナリの人物。見たような顔だ。 「どなたでしたかな?」 「芝の安福軒ですよ。それ、戦前まで先生の三軒向う隣りの万国料理安福軒。思いだしたでしょう。終戦
寺田寅彦
神田を散歩して 寺田寅彦 あるきわめて蒸し暑い日の夕方であった。神田を散歩した後に須田町で電車を待ち合わせながら、見るともなくあの広瀬中佐の銅像を見上げていた時に、不意に、どこからともなく私の頭の中へ「宣伝」という文字が浮き上がって来た。 それはどういうわけであったかよくわからない。その日は特別な「何々デー」というのでもなかったし、途中で宣伝の行列や自動車に
楠山正雄
「芝で生まれて神田で育ち」というふるい文句があるが、私は芝でこそ生まれないが、ついそのお隣り区の銀座で生まれて十三年、早く明治三十年代に、その時分、駿河台の、多分いまの明大校舎の辺にあった、伯父の博士樫村氏の山竜堂病院に寄寓の時代、一たび神田との縁がむすばれ、それから後、多少の断続はあっても、四十年代の末ふたたび冨山房を通して神田とはなれぬ関係ができて、いつ
南方熊楠
最初、明治三十九年十二月原内相が出せし合祀令は、一町村に一社を標準とせり。ただし地勢および祭祀理由において、特殊の事情あるもの、および特別の由緒書あるものにして維持確実なるものは合祀に及ばず、その特別の由緒とは左の五項なり。 (1)『延喜式』および『六国史』所載の社および創立年代これに準ずべきもの、(2)勅祭社、準勅祭社、(3)皇室の御崇敬ありし神社(行幸、
国枝史郎
神秘昆虫館 国枝史郎 一 「お侍様というものは……」女役者の阪東小篠は、微妙に笑って云ったものである。「お強くなければなりません」 「俺は随分強いつもりだ」こう答えたのは一式小一郎で、年は二十三で、鐘巻流の名手であり、父は田安家の家臣として、重望のある清左衛門であった。しかし小一郎は仕官していない。束縛されるのが厭だからで、放浪性の持ち主なのである。秀でた眉