木村荘八 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
東京の中は何処も大抵知つてゐるつもりでゐたけれども、燈台もと暗し、洲崎をろくに知らずにゐたことを最近になつて気が付いた。その洲崎へ行つて見て初めて、こんな特殊なところを、今まで殆んど知らずにゐたかと、迂遠に心付いたわけだ。 ――尤も洲崎の概念なり地形等々は子供の頃から聞きおぼえてよく知つてゐる。洲崎と云へば津浪、大八幡楼、広重の絵の十万坪(名所江戸百景の内)と、よく知つてゐる。写生画では小林清親や井上安治の木版画でその昔の有様をとうからなじみだし……却つてその為めに、今日まで実体は知らずにゐても気に留めずにゐたものだらう。地域のせゐでアヴァンテュールには縁無く過ぎた土地だ。 二三日前八丁堀まで写生の用があつて行つた序でに、そろそろ日の暮れ方であつたが、思ひ立つて洲崎まで足をのばして見た。そして車を「こゝが遊廓の入口だ」といふところで下りて見ると、相当幅の広い橋があつて、俄然としてその先きの行手に娼家の一劃が展ける。通りの真中に打渡したコンクリートの道幅が大層広く、その両側の、娼家の造りをした家並みが、また大層低く比較的暗い。そのくせ惻々として町全体に物憂いやうな、打つちやりはなしたやう
木村荘八
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