久保田万太郎 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
……だまつて、一人で、せッせと原稿を書いてゐた石谷さんが急に立ち上り、 「一寸、ぢやァ、行つて来ます。」 万年筆をいそがしく内かくしへしまひながらいつた。 「どこへ?」 「行つていらつしやい。」といふ代りにうッかりわたしはかういつた。……わたしはわたしの席で、用があつて来たある新聞の人と、用をすましたあとの世間ばなしをしてゐた。 「角力へ……」 けゞんさうに石谷さんはいつた。 「あゝ。」 気がついて、わたしは、うしろの壁の時計をみた。 「三時ですね、もう。」 「すこし今日はいつもより遅くなりました。……あッちの人たちは疾うにもうでかけました。」 ……あッちの人たちとは中継係の人たちをいふのである。 「行つてみようかしら、わたしも?」 ふいと、そのとき、石谷さんのその言葉の尾についてわたしはいつた。 「…………」 石谷さんはけゞんさうにまた眼鏡を光らせたが、 「どうです、行きませんか?」 すぐ、また、直截にいつた。 「連れて行つてくれますか?」 といふ意味は、不意に行つても邪魔にならないか?……わたしはさういつたつもりである。 「たまには御覧なさい、国技館のけしきも。」石谷さんはそれには
久保田万太郎
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