徳田秋声 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
爛 徳田秋声 一 最初におかれた下谷の家から、お増が麹町の方へ移って来たのはその年の秋のころであった。 自由な体になってから、初めて落ち着いた下谷の家では、お増は春の末から暑い夏の三月を過した。 そこは賑やかな広小路の通りから、少し裏へ入ったある路次のなかの小さい平家で、ついその向う前には男の知合いの家があった。 出て来たばかりのお増は、そんなに着るものも持っていなかった。遊里の風がしみていたから、口の利き方や、起居などにも落着きがなかった。広い大きな建物のなかから、初めてそこへ移って来たお増の目には、風鈴や何かと一緒に、上から隣の老爺の禿頭のよく見える黒板塀で仕切られた、じめじめした狭い庭、水口を開けると、すぐ向うの家の茶の間の話し声が、手に取るように聞える台所などが、鼻がつかえるようで、窮屈でならなかった。 その当座昼間など、その家の茶の間の火鉢の前に坐っていると、お増は寂しくてしようがなかった。がさがさした縁の板敷きに雑巾がけをしたり、火鉢を磨いたりして、湯にでも入って来ると、後はもう何にもすることがなかった。長いあいだ居なじんだ陽気な家の状が、目に浮んで来た。男は折り鞄などを提

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