野村胡堂 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
「お母様、泣いていらっしゃるの?」 よし子は下からのぞくように、母親の顔を見上げました。 「いえ、泣きはしません。なんにも泣くようなことはないじゃありませんか」 「でも、お父様の形見が一つずつなくなってゆくのが心細いって、昨日叔父様へ泣いておっしゃったじゃありませんか」 「この子はまあ」 母親は顔をそむけて、そっと涙をふきました。お正月の銀座はまだ宵の口ですが、身を切るような寒い風が街の石畳の上に、後から後からと砂ほこりの渦を巻いて、悲しい事がなくとも、つい涙のしみ出るような嫌な晩でした。 三十五六とも見える、やつれ果ててはおりますが、なんとなく上品な婦人と、とってようやく十一になる、可愛らしい娘のよし子とは、街路樹の蔭にうずくまって、あかりをさけるように、こうしめっぽい話をしております。 その前には毛氈が一枚、所々破けたままの上へ、火鉢、小机、置物、目覚し時計、膳、椀、皿、古茶器、装身具、文具など、いずれも中古から大古まで、中には化けそうなのもまじえて、古道具の貧しい店をひろげ、五十位の人の好さそうな中老人が、ふところ手をしたまま、えりまきにあごを埋めて、ポツネンと坐っておりました。
野村胡堂
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