おさん
太宰治
おさん 太宰治 一 たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出て行きます。私はお勝手で夕食の後仕末をしながら、すっとその気配を背中に感じ、お皿を取落すほど淋しく、思わず溜息をついて、すこし伸びあがってお勝手の格子窓から外を見ますと、かぼちゃの蔓のうねりくねってからみついている生垣に沿った小路を夫が、洗いざらしの白浴衣に細い兵古帯をぐるぐる巻きにして
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太宰治
おさん 太宰治 一 たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出て行きます。私はお勝手で夕食の後仕末をしながら、すっとその気配を背中に感じ、お皿を取落すほど淋しく、思わず溜息をついて、すこし伸びあがってお勝手の格子窓から外を見ますと、かぼちゃの蔓のうねりくねってからみついている生垣に沿った小路を夫が、洗いざらしの白浴衣に細い兵古帯をぐるぐる巻きにして
葛西善蔵
おせい 葛西善藏 「近所では、お腹の始末でもしに行つたんだ位に思つてゐるんでせう。さつきも柏屋のお内儀さんに會つたら、おせいちやんは東京へ行つてたいへん綺麗になつて歸つたと、ヘンなやうな顏して視てましたよ」と、ある晩もお酌をしながら、おせいは私に云つた。 父の四十九日の供養に東京に出て行つて、私もそのまゝ弟の家の二階で病氣の床に就いてしまつた。肺尖の熱が續き
長塚節
刈草を積んだ樣に丸く繁つて居た野茨の木が一杯に花に成つた。青く長い土手にぽつ/\とそれが際立つて白く見える。花に聚つて居る蟲の小さな羽の響が恐ろしい唸聲をなしつゝある。土手に添うて田が連る。石灰を撒いて居る百姓の短い姿がはらりと見えて居る。白い粉が烟の如く其の手先から飛ぶ。こまやかな泥で手際よく塗られた畦のつやゝかな濕ひが白く乾燥した田甫の道と相映じて居る。
坂口安吾
おみな 坂口安吾 母。――為体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。 私はいつも言いきる用意ができているが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だってありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかった。 九つくらいの小さい小学生のころであったが、突然私は出刃庖丁をふりあげて、家族のうち誰か一人殺すつもりで追いまわ
小川未明
頭が過敏すぎると、口や、手足の働きが鈍り、かえって、のろまに見えるものです。純吉は、少年の時分にそうでありました。 学校で、ある思慮のない教師が、純吉のことを、 「おまえは、鈍吉だ。」と、いったのが原因となって、生徒たちは、彼のことを鈍ちゃんとあだ名するようになりました。 「ドンチャン、早くおいでよ。」 学校への往復に友だちは、こういったものです。しまいには
長谷川時雨
きもの 長谷川時雨 着ものをきかへようと、たたんであるのをひろげて、肩へかけながら、ふと、いつものことだが古への清少納言のいつたことを、身に感じて袖に手を通した。 それは、雨の降るそぼ寒い日に、しまつてあつた着るものを出してひつかけると、薄い汗の香が鼻をかすめると、その、あるかなきかの、自分の汗の匂ひの漂よひと、過ぎさる夏をなつかしむおもひを、わづかの筆に言
長谷川時雨
きもの 長谷川時雨 着ものをきかへようと、たたんであるのをひろげて、肩へかけながら、ふと、いつものことだが古への清少納言のいつたことを、身に感じて袖に手を通した。 それは、雨の降るそぼ寒い日に、しまつてあつた着るものを出してひつかけると、薄い汗の香が鼻をかすめると、その、あるかなきかの、自分の汗の匂ひの漂よひと、過ぎさる夏をなつかしむおもひを、わづかの筆に言
中勘助
生垣つづきの小路が交叉してるところで私たちはばつたり出逢つた。飛田は意外な面もちをした。そしてほんの目と鼻の近処へこしてきながら知らせもしずにゐた私に尤もな苦情をいつた。私はなんとかいひ紛らしたにちがひない。 「遊びにきたまいよ」 飛田は口を尖らせていつた。そこで私たちは短い立ち話を切りあげて別れた。彼は役所の帰り、私は散歩か郵便を出しにゆく途中だつたらう。
北大路魯山人
このごろ、酒に適する、また、美食家の気に入る美味いものの第一品はくちこの生であろう。この生のくちこは、東京には売っていない。自分たちは加州金沢から取り寄せるのである。この風味はちょっと他に類がない。このわたに似て、水分の多い目方の重いものであるが、卸値百匁十五円から二十円ぐらいの最高価格の美食のひとつである。 多く能登に産する。表日本の方では四月ごろ見受ける
宮本百合子
さしえ 宮本百合子 『働く婦人』の三月号がとどいた。『働く婦人』がはじめて創刊されたのは一九三二年一月のことだった。その四号から、翌年発行が出来なくなるまで、佐多稲子さんが中心になって随分な努力をしたものだった。このごろ出版協会の文化委員会に出る婦人雑誌のリストの中で『働く婦人』が首位を占める数種の中にちゃんと自分の歴史的な位置をしめしているのを、わたしはい
佐藤垢石
人間は、だれしもおいしい物を食べているときが一番楽しいのではないかと思う。おいしい物といっても人の好みにより、人の舌の経験によって、いろいろちがうのであろうが、私はさしみをもっともおいしいと思って食べているのである。 しかし、さしみといえばどこの料理屋へ行っても、魚屋が持ってくるものはめじまぐろ、しびまぐろ、かじきまぐろ、かつお、たい、ひらめ、ふぐなどばかり
鈴木三重吉
ざんげ 鈴木三重吉 一 ロシアのウラディミイルといふ町に、イワン・アシオノフといふ商人がゐました。住居と、店を二つももつてゐるほどのはたらき人で、謡をうたふことの大好きな、おどけ上手の、正直ものでした。 そのイワンが或夏、ニズニイといふ町の市へ品物をさばきに出かけました。イワンが馬車をやとつて荷物をつみ入れさせ、子どもたちや、おかみさんに、いつてくるよとあい
北条民雄
すみれ 北條民雄 昼でも暗いような深い山奥で、音吉じいさんは暮して居りました。三年ばかり前に、おばあさんが亡くなったので、じいさんはたった一人ぼっちでした。じいさんには今年二十になる息子が、一人ありますけれども、遠く離れた町へ働きに出て居りますので、時々手紙の便りがあるくらいなもので、顔を見ることも出来ません。じいさんはほんとうに侘しいその日その日を送って居
正岡子規
すゞし 正岡子規 「すゞし」といふ語は「すが/\し」のつゞまりたるにやと覚ゆれど、意義稍変りておもに気候に関して用うる事となり、「涼」の字をあてはむるやうにはなりぬ。月令には「涼風至白露降」といふを七月としたれば涼風は初秋の風なるべし。されば支那の詩亦多くは初秋に涼の字を用う。すゞしといふ語は万葉には無きかと思はる。古今集には みな月つこもりの日よめる 躬恒
岸田国士
せりふ 岸田國士 ――それが、画かきらしくないんですの。 このせりふの言ひ方が二た通りある。 画かきではあるが、画かきらしく見えない、といふ意味を表はす場合と、画かきだといふけれど、実際は画かきではなからう、といふ意味を表はす場合と。 しかし、戯曲を読むものは、そこまで気をつけて読んではくれないらしい。 気をつけるかつけないかの問題ではない。戯曲を耳で感じる
チェーホフアントン
ユウコフは年はまだやつと九つです。せんには、お母さんと一しよに、ゐなかの村のマカリッチさまといふ、だんなのうちにおいてもらつてゐました。お母さんはそのうちの女中になつて、はたらいてゐたのです。そのお母さんが死んでしまつたので、ユウコフもそのお家にゐられなくなり、人の世話で、三月まへから、この靴屋の店へ、奉公にはいつたのでした。 こよひはクリスマスの晩です。ユ
三遊亭円朝
昔浅草の駒形に半田屋長兵衛といふ茶器の鑑定家がございました。其頃諸侯方へ召され、長兵衛が此位の値打が有るといふ時は、直に其の代物を見ずに長兵衛が申しただけにお買上になつたと云ふし、此人は大人でございますから、大概な処から呼びに来ても頓と参りません。家には変な奉公人を置きまして、馬鹿な者を愛して楽しんでゐるといふ極無慾な人でございました。長「何を、往かねえよ、
仲村渠
あなたの白い手冷くならんだ五指の甲でこの頬が打たれたい 落葉に敲かれるシルクハツトは悲しげである凛乎と美しい反りで悲しげである 一座の花形 美少女の平手に敲かれる道化役の頬より悲しげであるキヤフエの紳士 白皮の手套に敲かれる酔漢の頬より悲しげである ねがひは降りしきる落葉素裸に立つ僕のからだは悲しげである ●図書カード
末吉安持
つぶやきぬ。 『ああうたて「夢」を飾りし世の宝 手玉も、花も薫陸も 有りのことごと朽ちはてぬ、 あはれ死なまし。』 またうめく。 『ああうたて、恋も、まことも、愛楽も 蒼蠅羽ならし飛びめぐる 腐肉にまとふ温気のみ。』 ほと息づかひ。 けしきばみ、 『男子とはたをやの髪の一一に 憑りては移る風病ぞ。』 つと見ゆ、青きまなじりの さびしき『ねたみ。』 ●図書カー
渡久山水鳴
銅色の工夫等は 「くわつと」輝く夏の日を 背中にうけつ十数人 えいや声してほそ長な 轆轤にかけし石砕器 高くおとせば、水煙―― 四方に雨ふり――魚死せり。 見よまたかなた住吉の 岩にひそます、恐ろしき、 ダイナマイトの導源に 妖の火つとふ荒男―― 見る、見る、岩は砕かれて 自然の富もほろびゆく。 いざひとめぐりやすまんと 木蔭に集ひ仰向きに 身を横たふる荒男
新美南吉
ひるはどこもがひかるんだ。 みてるとどこもがひかるんだ。 ぼうしのひさしがひかるんだ。 たれのひさしもひかるんだ。 フツトボールがひかるんだ。 たかいおそらがひかるんだ。 せんせいのかほひかるんだ。 にこ/\としてひかるんだ。 せんだんのえだひかるんだ。 めをもつえだがひかるんだ。 こうていのこゑひかるんだ。 みんなのこゑがひかるんだ。 がつこうのそらひかる
萩原朔太郎
くち惜しきふるまひをしたる朝 あららんらんと降りしきる雪を冒して 一目散にひたばしる このとき雨もそひきたり すべてはくやしきそら涙 あの顏にちらりと落ちたそら涙 けんめいになりて走れよ ひたばしるきちがひの涙にぬれて あららんらんと吹きつける なんのふぶきぞ青き雨ぞや ●図書カード
小川未明
正ちゃんは、やんまを捕りました。そして、やんまの羽についた、もちを取っていると、ぶるっとやんまは、羽を鳴らして、手から逃げてしまいました。 「あっ。」と、いって、その逃げた方を見送ると、よく飛べないとみえて、歩いてゆくおばあさんの背中にとまったのです。 正ちゃんは、胸がどきどきしました。どうしたら、うまく捕らえることができるだろうと思ったからです。 正ちゃん
国木田独歩
わが青年の名を田宮峰二郎と呼び、かれが住む茅屋は丘の半腹にたちて美わしき庭これを囲み細き流れの北の方より走り来て庭を貫きたり。流れの岸には紅楓の類を植えそのほかの庭樹には松、桜、梅など多かり、栗樹などの雑わるは地柄なるべし、――区何町の豪商が別荘なりといえど家も古び庭もやや荒れて修繕わんともせず、主人らしき人の車その門に駐りしを見たる人まれなり、売り物なるべ