尹主事
金史良
尹主事 金史良 町の北、丘を越えたところにじめじめした荒蕪地がある。その眞中に崩れかかった一坪小屋がしょんぼり坐っていた。潜戸の傍にかけた大きな板には墨字で尹主事と書かれている。 尹主事は朝起きると先ず自分の版圖を檢分した。彼はこの荒蕪地一帶を自分の所領と定めている。汗をはたはた流しながら棒切れで境線を引き廻る。 そこで一先ず小屋に歸り、地下足袋をはきよれよ
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金史良
尹主事 金史良 町の北、丘を越えたところにじめじめした荒蕪地がある。その眞中に崩れかかった一坪小屋がしょんぼり坐っていた。潜戸の傍にかけた大きな板には墨字で尹主事と書かれている。 尹主事は朝起きると先ず自分の版圖を檢分した。彼はこの荒蕪地一帶を自分の所領と定めている。汗をはたはた流しながら棒切れで境線を引き廻る。 そこで一先ず小屋に歸り、地下足袋をはきよれよ
長谷川時雨
日蓮聖人の消息文の中から、尼御前たちに對へられた書簡を拾つてゆくと、安産の護符をおくられたり、生れた子に命名したりしてゐて、哲人日蓮、大詩人日蓮の風貌躍如として、六百六十餘年の世をへだてた今日、親しく語りかけられる心地がする。もとよりこの尼御前たちは在家の尼たちであるが、送られた手紙は、文章も簡潔で實に好い。それよりもよいのは、寄進された品目をいつも頭初に書
田中貢太郎
尼になった老婆 田中貢太郎 なむあみだぶ、なむあみだぶ、こんなことを口にするのは、罪深い業でございますが、門跡様の御下向に就いて思い出しましたから、ちょっと申します。その時は手前もまだ独身で、棒手振を渡世にしておりました時のことでございますから、さあ、文政の二三年、いや、もうすこし後でございましたかな、東本願寺の門跡様が久かたぶりで御下向遊ばすと云うことにな
尾崎放哉
尾崎放哉選句集 尾崎放哉選句集 青空文庫版まえがき このHTMLファイルには、種田山頭火と並んでいわゆる自由律俳句を代表する俳人、尾崎放哉(おざき・ほうさい。一八八五―一九二六)の作品を年代を追って並べた。放哉の句作は早く中学時代に始まっており、四一歳で死去するまでの足どりを十の時期に区分してある。 ここに掲載したのは、もとより放哉の句すべてではな
田山花袋
『色懺悔』『夏痩』あたりから、私は紅葉の作物を手にした。矢張、毎朝『読売』の一回を楽んだ方で、『おぼろ舟』のお藤『心の闇』のお粂などは、長い間忘れられないほどの印象を私の頭脳に残して居た。 其頃『江戸紫』といふ雑誌が硯友社の人達の手に由つて発行されて居た。それを千駄木の鴎外漁史が評して、『われも紫の一本ゆゑにかの雑誌を愛読するものなり』といふ意味のことを書い
木暮理太郎
尾瀬の名は『会津風土記』に「小瀬峠 陸奥上野二州之界」又は「小瀬沼 在会津郡伊南郷縦八里横三里」として載っているのが古書に見られる最初である。此書は寛文六年に編纂されたもので、これに先立つこと約二十年の『正保図』には、「さかひ沼」と記してあるが「をぜ沼」とは書いてない。或は正保以前から「をぜ」の称があったかとも思われる、けれども『会津風土記』以外には確な記録
平野長蔵
尾瀬沼の四季 平野長蔵 尾瀬沼は海抜五千四百九拾尺、福島県と群馬県とにわたり、東は栃木県に峰を連ね、北西は新潟県及利根水源に接している。今日もなお三十年前と同じく少しも俗化せず、真に自然の仙境である。 冬季は降雪甚しく、眼前咫尺を弁せず、日光を見ざること五日以上に至ることも珍しからず、従って寒気甚しく、寒暖計は水銀柱が萎縮して下部のガラス球の中にその姿を没し
木暮理太郎
尾瀬の記事は既に書き尽されてあるから、この上の剰筆は真に蛇足であるに過ぎないが、敢て二、三の見聞をここに載せることにした。尤も雑談に花を咲かせる程の興味あるものでないことは予め御承知を願いたい。 尾瀬沼は『正保図』には「さかひ沼」となっていて、尾瀬とも小瀬とも記してないことは、曾て『山岳』十六年三号に書いた通りである。然るに寛文六年の序ある『会津風土記』には
牧野信一
途中で考へるから、ともかく銀座の方へ向つて走つて呉れたまへ――僕は、いつにもそんなことはないのだが、たつたひとりで寂しさうに外へ出ると、車に乗つて、そんな風に呟いた。外套の襟に顔を埋めて、うまいものだなあ――と吐息を衝くのであつた。あの人の作品が、年を重ねる度に、一作は一作毎に深い艶を含んで、歴起として来るおもむきなんていふものは、容易に他人の眼にはつき憎い
中谷宇吉郎
今度の土佐滯在中、今一つの收穫は、尾長鷄を見たことである。 尾長鷄のことは、中學時代に、進化論の一つの例證として、教わったこともあるが、その後あれは一種の純粹培養であって、種の變化ではない、というような話を、何かの科學雜誌で讀んだ記憶がある。 そのいずれも、遠い昔の話であって、その後まるで專門ちがいのことなので、何時ともなく忘れていた。ところが今度の高知訪問
ギャロッドアーチボルド
アーチボルド・ギャロッド MAオクスフォード大学MD グレート・オーモンド街小児病院医師、聖バーソロミュー病院化学病理学・実地授業助手 ランセット誌 pp.1616-1620(1902)より アルカプトン尿症についての最近の研究は、この病態で不変な特性はホモゲンチジン酸(*2,5-ジヒドロキシフェニル酢酸)の排泄であり、アルカプトン(*アルカリ+掴まえる)尿
新美南吉
石太郎が屁の名人であるのは、浄光院の是信さんに教えてもらうからだと、みんながいっていた。春吉君は、そうかもしれないと思った。石太郎の家は、浄光院のすぐ西にあったからである。 なにしろ是信さんは、おしもおされもせぬ屁こきである。いろいろな話が、是信さんの屁について、おとなたちや子どもたちのあいだに伝えられている。是信さんは、屁で引導をわたすという。まさかそんな
豊島与志雄
バラック居住者への言葉 豊島与志雄 バラックに住む人々よ、諸君は、バラックの生活によって、云い換えれば、僅かに雨露を凌ぐに足るだけの住居と、飢渇を満すに足るだけの食物と、荒凉たる周囲の灰燼と、殆んど着のみ着のままの自分自身と、其他あらゆる悲惨とによって、初めて人間の生活というものを、本当に知ったに――感じたに違いない。 普通の生活に於ては、諸君の大部分は、生
坂口安吾
居酒屋の聖人 坂口安吾 我孫子から利根川をひとつ越すと、こゝはもう茨城県で、上野から五十六分しかかゝらぬのだが、取手といふ町がある。昔は利根川の渡しがあつて、水戸様の御本陣など残つてゐる宿場町だが、今は御大師の参詣人と鮒釣りの人以外には衆人の立寄らぬ所である。 この町では酒屋が居酒屋で、コップ酒を飲ませ、之れを『トンパチ』とよぶのである。酒屋の親爺の説による
今野大力
この一本のレール この一本のリベット この一本の枕木 この掘割、この盛り土 このコンクリート その上を平穏に走って行く機関車 機関車は一つの鋲から 一つのネジ 一つの管から、一つの安全弁 その機関車に焚く一塊の石炭までも 何から何まで、ピンからキリまで おお これが誰の仕事の成果であるか すべてはタコだらけの手のひらでなで 俺たちの仲間の労働がつくった 機関
岸田国士
屋上庭園 岸田國士 人物 並木 その妻 三輪 その妻 所 或るデパアトメントストアの屋上庭園 時 九月半ばの午後 二組の夫婦が一団になつて、雑談を交してゐる。一方は裕福な紳士令夫人タイプ、一方は貧弱なサラリイマン夫婦を代表する男女である。 男同志は極めて親しげな様子を見せてゐるに拘はらず、女同志は、互に打解け難い気持を強ひて笑顔に包んでゐるといふ風が見える。
林芙美子
鹿兒島で、私たちは、四日も船便を待つた。海上が荒れて、船が出ないとなれば、海を前にしてゐながら、どうすることも出來ない。毎日、ほとんど雨が降つた。鹿兒島は母の郷里ではあつたが、室生さんの詩ではないけれども、よしや異土の乞食とならうとも、古里は遠くにありて、想ふものである。 雨の鹿兒島の町を歩いてみた。スケッチブックを探して歩いた。町の屋根の間から、思ひがけな
田中貢太郎
これは喜多村緑郎さんの持ち話で、私も本年六月の某夜浜町の支那料理で親しく喜多村さんの口から聞いて、非常に面白いと思ったから、其のうけうりをやってみることにしたが、此の話の舞台は大阪であるから、話中上場の人物は、勢、要処要処で大阪辯をつかわなくてはならないが、私には大阪辯がつかえないから、喜多村さんの話のように精彩のないと云うことをあらかじめ承知していてもらい
原民喜
かちんと、羽子板にはねられると、羽子は、うんと高く飛び上ってみました。それから、また板に戻ってくると、こんどはもっと思いきって高く飛び上りました。何度も何度も飛び上っているうちに、ふと羽子は屋根の樋のところにひっかかってしまいました。はじめ羽子はくるっと廻って、わけなく下に飛び降りようとしました。しかし、そう思うばかりで、身体がちょっとも動きません。 しばら
田中貢太郎
昭和九年の夏、横井春野君が三田稲門戦の試合を見て帰って来たところで、その時千葉の市川にいた令弟の夫人から、 「病気危篤、すぐ来い」 と云う電報が来た。横井君は令弟の容態を心配だから、夜もいとわずに市川へ駈けつけた。そして、令弟の家の門口を潜ろうとして、何気なく屋根の上へ眼をやったところで、其処に一匹の黒猫がいて、それが糸のような声で啼いていた。瞬間横井君は、
坂口安吾
その日は大晦日です。何者か戸を叩く音に、ヤモメ暮しの気易さ、午ちかくまで寝ていた医者の妙庵先生、起きて戸をあけると、 「エエ、伊勢屋源兵衛から参りましたが、本日はお風呂をたてましたので例年の通り御案内にあがりました。どうぞお運び下さいまし」 「では本日は伊勢屋の煤はらいか」 「ヘエ、左様で。例年は十二月の十三日に行う慣いでしたが、当年に限って忙しかったので大
中山太郎
* 栃木県足利郡地方の村々では、死人があると四十九日の間を、その死人が肌に着けていた衣類を竿に掛け、水気の断えぬように水をかけるが、これを『七日晒し』と云うている。俚伝にはこの水がきれると、死人の咽喉が乾いて極楽に往けぬから、こうするのだと云うているが、元より信用することの出来ぬ浮説である。私の考えるところでは、この民俗はかつて同地方に住んでいたことのあるア
原民喜
「屍の街」 原民喜 私はあのとき広島の川原で、いろんな怪物を視た。男であるのか、女であるのか、ほとんど区別もつかない程、顔がくちゃくちゃに腫れ上って、随って眼は糸のように細まり、唇は思いきり爛れ、それに痛々しい肢体を露出させ、虫の息で横たわっている人間たち……。だが、そうした変装者のなかに、一人の女流作家がいて、あの地獄変を体験していたとは、まだあの時は知ら
上村松園
屏風祭 上村松園 京都という町ほど祭の多いところも全国ですくないだろう。 そのどの祭も絢爛として天下に名を知られたものばかりだ。時代祭、染織祭、祇園祭などが代表的なものとされているが、その祇園の祭を一名屏風祭とも称ぶ――私にとって、この屏風祭は他のどの祭よりも愉しかったものである。 祇園祭になると四条通りの祇園界隈では、その家の秘蔵の屏風を表玄関の間に飾って