鴎外の思い出
小金井喜美子
鴎外の思い出 小金井喜美子 序にかえて あやしくも重ねけるかなわがよはひ 八十四歳一瞬にして これは今年の正月の私の誕生日に、子供たちが集った時に口ずさんだのです。 いつか思いの外に長命して、両親、兄弟、主人にも後れ、あたりに誰もいなくなったのは寂しいことですが、幸いに子供だけは四人とも無事でいますのを何よりと思っています。近親中で長生したのは主人の八十七、
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小金井喜美子
鴎外の思い出 小金井喜美子 序にかえて あやしくも重ねけるかなわがよはひ 八十四歳一瞬にして これは今年の正月の私の誕生日に、子供たちが集った時に口ずさんだのです。 いつか思いの外に長命して、両親、兄弟、主人にも後れ、あたりに誰もいなくなったのは寂しいことですが、幸いに子供だけは四人とも無事でいますのを何よりと思っています。近親中で長生したのは主人の八十七、
会津八一
綜合大學を作るのに、まづもつて、何よりも大切なのは、よき總長を得ることだといふやうな意見を、最近何處かで見たが、これはとんでもない大まちがひの意見で、私は、びつくりしてしまつた。大學を作るには、先日も述べたやうに何より大切なのは、よき教授を見つけて來ることで、總長は、その教授團の中から選擧で出來るものだ。 國立大學は、もともと、政府が建てたもので、その目的が
会津八一
綜合大學が新潟に出來ることに本ぎまりにきまつたといふことはまことにうれしい。いち早く氣勢を上げて、猛烈に奔走してくれた指導者たちに感謝しなければならない。 けれども、綜合大學は、もう全國に二十も出來てゐる。ひろく見渡せば、珍しいものがこれから出現するのではない。これが出來たからといつて、この縣が他縣に對して大に威張れるといふのではない。もし大に威張りたいなら
会津八一
小泉八雲といへば、日本人の名であるし、日本人として東京の宅で死んでその全集は日本語で出版されてゐるが、父は英國のアイルランドの軍醫、母はギリシャのリウカヂアの娘、子供の時はフランスの叔母の手で育てられ、青年時代にアメリカへ渡つて文學者となり、日本へ來て出雲松江の中學教師となり、小泉といふ士族の家へ婿入りして、日本人になり、熊本の高校、東京帝大に轉任して英文學
会津八一
何處までも/\芋畑や雜木林ばかりで退屈な汽車の窓に、小ぢんまりとした木立が見えて、それが近づくにつれて庭には草花が綺麗に咲かせてあつて、その中に白い鷄が遊んで居る、家の造りも面白い、こんな時に、飛ぶやうに通り過ぎて行く旅人の目にも、先づ床しいものは其家の主人である。また裏長屋の軒竝を歩いて居るうちに、不圖ある家の窓から床の間の一軸、それが名も無い畫家の作であ
会津八一
私は新潟の生れで小學校は西堀小學校(今はないが、廣小路の消防の詰署のある附近)へ通つたものだ。そこを出て大畑の高等小學校へ進んだが、成績はけつして優等どころでなく、やうやく眞中へとどくかとどかないかといふ程度だつた。 卒業する時、學校へ自分の目的を紙に書いて出すこととなつた。その時私の同級生は總理大臣になりたいとか、陸軍大臣けん海軍大臣になるとか、さういふこ
会津八一
「それは意見の相違だ」と互に頑張りあつて、相下らない。こんな事は世間の政治家の間などには、珍らしくも無くなつて仕舞つたが、「趣味の相違」といふ捨科白を美術や文學などに心を寄せる人々との間にも折々聞かされるので、其度毎に私はいやな思ひをする。世の中がデモクラチックになつて行くに從つて、意見の相違も重大さを増して來るであらうし、文藝上の事も畢竟趣味の相違に、あら
会津八一
古い日記や手紙などを、みんな燒いてしまつたので、こまかに時日をいへないが、まだ若い中學教師であつた私が、牛込下戸塚町の素人下宿から、小石川豐川町へ引越して、その時越後から出て來たばかりの三人の書生と初めて所帶を持つたのは、たしか大正のはじめであつた。その時書生たちが机を並べた八疊の間の床の間の壁に、私がその人たちのために作つた四か條の學規といふものを自筆で書
会津八一
既に美育部を持つてゐる早稻田中學校が新に音樂會を興してその發會式をやらうとする其の日から、又病氣で暫く引き籠る事になつた。私は元來音樂には殆ど無智で趣味も深いとは言へない。けれども相應な希望は持つてゐる。病中ながら、その希望を會員の諸君にも會員外の諸君にも一寸申し上げてみたいと思ふ。 吾々は何の爲に畫を描くか? かつて美育部の展覽會で私がかう云ふ問題を出し、
会津八一
私は拓本の御話をしやう。 支那では昔からすべて文字で書いたものを大切にするが、誰が書いたところで相當に年月が經てばみんな消えて仕舞ふ。紙でも、絹でも、木でも、――名人が書けば木の中へ何寸も深く字が喰ひ込むなどと昔からいふことであるけれども、其木からが千年も經てば磨滅もする風化もする。無くなつてみれば勿論紀念にもならないし、習字の手本にもならない。そこで金屬や
会津八一
支那の明器 會津八一 私ほど名実の副はない蒐集家は無い。何か余程いゝものでも沢山持つて居るやうに云ひ囃やされながら、実は是れと云ふほどのものは何も持たない。 小石川に住んで居る頃に――これは十数年も前のことだが――諸国の郷土玩具を集めたことがあつた。六百種もあつたかと思ふ。しかしこれは世間の玩具通などのするやうに、いろいろの変つた物を集めて自慢をするといふの
会津八一
菊の根分をしながら 會津八一 昨日が所謂彼岸の中日でした。吾々のやうに田舎に住むものの生活が、これから始まるといふ時です。私も東京の市中を離れた此の武蔵野の畑の最中に住んで居るから、今日は庭の隅に片寄せてある菊の鉢を取り出して、この秋を楽しむ為に菊の根分をしようとして居るところです。実は私は久しいこと菊を作つて居るのであるが、此二三年間は思ふ所あつて試にわざ
会津八一
一片の石 會津八一 人間が石にたよるやうになつて、もうよほど久しいことであるのに、まだ根気よくそれをやつてゐる。石にたより、石に縋り、石を崇め、石を拝む。この心から城壁も、祭壇も、神像も、殿堂も、石で作られた。いつまでもこの世に留めたいと思ふ物を作るために、東洋でも、西洋でも、あるひは何処の極でも、昔から人間が努めてゐる姿は目ざましい。人は死ぬ。そのまま地び
加藤道夫
なよたけ 加藤道夫 『竹取物語』はこうして生れた。 世の中のどんなに偉い学者達が、どんなに精密な考証を楯にこの説を一笑に付そうとしても、作者はただもう執拗に主張し続けるだけなのです。 「いえ、竹取物語はこうして生れたのです。そしてその作者は石ノ上ノ文麻呂と云う人です。……」 人物 石ノ上ノ綾麻呂 石ノ上ノ文麻呂 瓜生ノ衛門 清原ノ秀臣 小野ノ連 大伴ノ御行
カフカフランツ
誰かがヨーゼフ・Kを誹謗したにちがいなかった。なぜなら、何もわるいことをしなかったのに、ある朝、逮捕されたからである。彼の部屋主グルゥバッハ夫人の料理女は、毎日、朝の八時ごろに朝食を運んでくるのだったが、この日に限ってやってはこなかった。そういうことはこれまであったためしがなかった。Kはなおしばらく待ち、枕についたまま、向う側の家に住んでいる老婆がいつもとま
愛知敬一
偉人の伝記というと、ナポレオンとかアレキサンドロスとか、グラッドストーンというようなのばかりで、学者のはほとんど無いと言ってよい。なるほどナポレオンやアレキサンドロスのは、雄であり、壮である。しかし、いつの世にでもナポレオンが出たり、アレキサンドロスの出ずることは出来ない。文化の進まざる時代の物語りとして読むには適していても、修養の料にはならない。グラッドス
伊東忠太
妖怪研究 伊東忠太 一 ばけものの起源 妖怪の研究と云つても、別に專門に調べた譯でもなく、又さういふ專門があるや否やをも知らぬ。兎に角私はばけものといふものは非常に面白いものだと思つて居るので、之に關するほんの漠然たる感想を、聊か茲に述ぶるに過ぎない。 私のばけものに關する考へは、世間の所謂化物とは餘程範圍を異にしてゐる。先づばけものとはどういふものであるか
伊東忠太
日本建築の發達と地震 伊東忠太 一 太古の家と地震 昔、歐米の旅客が日本へ來て、地震のおほいのにおどろくと同時に、日本の家屋が、こと/″\く軟弱なる木造であつて、しかも高層建築のないのを見て、これ畢竟地震に對する災害を輕減するがためであると解してくれた。 何事も外國人の説を妄信する日本人は、これを聞いて大いに感服したもので、識見高邁と稱せられた故岡倉覺三氏の
伊東忠太
國語尊重 伊東忠太 一 國語は國民の神聖なる徽章 元來わが日本語は甚だ複雜なる歴史を有する。 大體に於てその大部分は太古より傳來せる日本固有の言語及び漢語をそのまゝ取り入れたもの、またはこれを日本化したもので、一部は西洋各國例へば英、佛、和、獨、西、葡等の諸國の語から轉訛したもの、及び梵語系その他のものも多少ある。 近來世界の文運が急激に進展したのと、國際的
伊東忠太
建築の本義 伊東忠太 近頃時々我輩に建築の本義は何であるかなどゝ云ふ六ヶ敷い質問を提出して我輩を困らせる人がある。これは近時建築に對する世人の態度が極めて眞面目になり、徹底的に建築の根本義を解決し、夫れから出發して建築を起さうと云ふ考へから出たことで、この點に向つては我輩は衷心歡喜を禁じ得ぬのである。 去りながらこの問題は實は哲學の領分に屬するもので、容易に
伊東忠太
誤まれる姓名の逆列 伊東忠太 一 姓名の由來と順位 わが輩はかつて『國語尊重』と題して、わが國固有の言語殊に固有名の尊重せらるべきゆゑんをのべた。今またこれに關聯して、わが國民の姓名の書き方について一言したいと思ふ。 わが國の姓名の發生發達の歴史はこゝに述べないが、要するに今日吾人の姓と稱するものは實は苗字といふべきもので、苗字と姓と氏とはその出處を異にする
久生十蘭
市電をおりた一人の男が、時計を出してちょっと機械的に眺めると、はげしい太陽に照りつけられながら越中島から枝川町のほうへ歩いて行った。左手にはどす黒い溝渠をへだてて、川口改良工事第六号埋立地の荒漠たる地表がひろがっていて、そのうえを無数の鴎が舞っていた。 その男は製粉会社の古軌条置場の前で立ちどまると、ゴミゴミした左右の低い家並を見まわしながら、急にヒクヒクと
久生十蘭
夏は終ったが、まだ秋ではない、その間ぐらいの季節…… 沖波が立ち、海はクラゲの花園になっている。渚に犬がいる。子供がいる。漁師が大きな魚籃をかついで、波うちぎわを歩いている。 秋波のうちかえす鎌倉の海は、房州あたりの鰯くさい漁村の風景と、すこしもちがわない。 飯島の端にある叔母の家の広縁からながめると、むこう、稲村ヶ崎の切通しの下までつづく長い渚には、暑い東
久生十蘭
春雨の降る四月の暗い日曜日の朝、渋谷の奥にあるバラックの玄関の土間に、接収解除通知のハガキが、音もなく投げこまれた。 自分の家には、毛色のちがう名も知らぬひとがはいりこみ、当の持主の家族は、しがない間借りか借家で、不自由しながらゴタゴタしているのは、戦争に負けたせいだと思っても、あきらめきれるものではなかったろう。収用にかかっていた物件は、すべて講和発効と同