谷崎潤一郎 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
もう彼れ此れ二十年ばかりも前になろう。漸く私が十ぐらいで、蠣殻町二丁目の家から水天宮裏の有馬学校へ通って居た時分―――人形町通りの空が霞んで、軒並の商家の紺暖簾にぽか/\と日があたって、取り止めのない夢のような幼心にも何となく春が感じられる陽気な時候の頃であった。 或るうら/\と晴れた日の事、眠くなるような午後の授業が済んで墨だらけの手に算盤を抱えながら学校の門を出ようとすると、 「萩原の栄ちゃん」 と、私の名を呼んで後からばた/\と追いかけて来た者がある。其の子は同級の塙信一と云って入学した当時から尋常四年の今日まで附添人の女中を片時も側から離した事のない評判の意気地なし、誰も彼も弱虫だの泣き虫だのと悪口をきいて遊び相手になる者のない坊ちゃんであった。 「何か用かい」 珍らしくも信一から声をかけられたのを不思議に思って私は其の子と附添の女中の顔をしげ/\と見守った。 「今日あたしの家へ来て一緒にお遊びな。家のお庭でお稲荷様のお祭があるんだから」 緋の打ち紐で括ったような口から、優しい、おず/\した声で云って、信一は訴えるような眼差をした。いつも一人ぼっちでいじけて居る子が、何でこんな
谷崎潤一郎
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