銭形平次捕物控 133 井戸の茶碗
野村胡堂
「フーム」 要屋の隠居山右衛門は、芝神明前のとある夜店の古道具屋の前に突っ立ったきり、しばらくは唸っておりました。 胸が大海のごとく立ち騒いで、ボーッと眼が霞みますが、幾度眼を擦って見直しても、正面の汚い台の上に載せた茶碗が、運の悪い人は一生に一度見る機会さえないと言われた井戸の名器で、しかも夜目ながら、息づくような見事さ。総体薄枇杷色で、春の曙を思わせる釉
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野村胡堂
「フーム」 要屋の隠居山右衛門は、芝神明前のとある夜店の古道具屋の前に突っ立ったきり、しばらくは唸っておりました。 胸が大海のごとく立ち騒いで、ボーッと眼が霞みますが、幾度眼を擦って見直しても、正面の汚い台の上に載せた茶碗が、運の悪い人は一生に一度見る機会さえないと言われた井戸の名器で、しかも夜目ながら、息づくような見事さ。総体薄枇杷色で、春の曙を思わせる釉
野村胡堂
「親分、こいつは変っているでしょう。とって十九の滅法綺麗な新造が仏様と心中したんだから、江戸開府以来の騒ぎだ」 ガラッ八の八五郎は、また変な噂を聴き込んで来ました。 「何をつまらねエ」 「つまるかつまらねエか、ちょいと行ってみて下さいよ。京屋じゃ怪我(事故)にして検屍を受け、日が暮れたら、お葬いを出すつもりでいるが、若い娘が仏様を抱いて、大川へ飛び込んでそれ
野村胡堂
「親分」 「何だ、八。大層あわてているじゃないか」 「天下の大事ですぜ、親分」 「大きく出やがったな。大久保彦左衛門様みたいな分別臭い顔をどこで仕入れて来たんだ」 銭形の平次はおどろく色もありません。八五郎のガラッ八と来ては、向柳原の叔母さんが無尽に当っても、隣の荒物屋の猫が五つ子を生んでも、天下の大事扱いにしかねないあわて者です。 「ね、親分。親分は近ごろ
野村胡堂
「親分」 「何んだ、八。大層あわててゐるぢやないか」 「天下の大事ですぜ、親分」 「大きく出やがつたな。大久保彦左衞門樣見たいな分別臭い顏をどこで仕入れて來たんだ」 錢形の平次は驚く色もありません。八五郎のガラツ八と來ては、向柳原の叔母さんが無盡に當つても、隣の荒物屋の猫が五つ子を生んでも、天下の大事扱ひにしかねないあわて者です。 「ね、親分。親分は近頃火事
野村胡堂
三河町一丁目の大元締、溝口屋鐘五郎の家は、その晩割れ返るような賑わいでした。親分の鐘五郎は四十三歳、後厄の大事な誕生日を迎えた上、新たに大大名二軒の出入りを許されて、押しも押されもせぬ、江戸一番の人入れ稼業になった心祝いの酒盛りだったのです。 集まった子分は三十八人、店から奥へ三間ほど打っこ抜いて、底の抜けるような騒ぎ。――十六基の燭台、二十幾つの提灯に照ら
野村胡堂
三河町一丁目の大元締、溝口屋鐘五郎の家は、その晩割れ返るやうな賑ひでした。親分の鐘五郎は四十三歳、後厄の大事な誕生日を迎へた上、新に大々名二軒の出入りを許されて、押しも押されもせぬ、江戸一番の人入稼業になつた心祝ひの酒盛だつたのです。 集つた子分は三十八人、店から奧へ三間ほど打つこ拔いて、底の拔けるやうな騷ぎ。――十六基の燭臺、二十幾つの提灯に照された酒池肉
野村胡堂
小網町二丁目の袋物問屋丸屋六兵衞は、到頭嫁のお絹を追ひ出した上、伜の染五郎を土藏の二階に閉ぢ籠めてしまひました。 理由はいろ/\ありますが、その第一番に擧げられるのは、染五郎は跡取には相違ないにしても、六兵衞の本當の子ではなく、藁の上から引取つた甥で、情愛の上にいくらか裃を着たものがあり、第二番の直接原因は、お絹の里が商賣の手違ひから去年の暮を越し兼ねて居る
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小網町二丁目の袋物問屋丸屋六兵衛は、とうとう嫁のお絹を追い出した上、倅の染五郎を土蔵の二階に閉じ籠めてしまいました。 理由はいろいろありますが、その第一番に挙げられるのは、染五郎は跡取りには相違ないにしても、六兵衛のほんとうの子ではなく、藁の上から引取った甥で、情愛の上にいくらか裃を着たものがあり、第二番の直接原因は、お絹の里が商売の手違いから去年の暮を越し
野村胡堂
「親分、変なことがありますよ」 八五郎のガラッ八が、長い顔を糸瓜棚の下から覗かせたとき、銭形の平次は縁側の柱にもたれて、粉煙草をせせりながら、赤蜻蛉の行方を眺めておりました。この上もなくのんびりした秋のある日の夕刻です。 「びっくりさせるじゃないか、俺は糸瓜が物を言ったのかと思ったよ」 「冗談でしょう。糸瓜が髷を結って、意気な袷を着るものですか」 ガラッ八は
野村胡堂
「親分、變なことがありますよ」 八五郎のガラツ八が、長んがい顏を糸瓜棚の下から覗かせた時、錢形の平次は縁側の柱にもたれて、粉煙草をせゝり乍ら、赤蜻蛉の行方を眺めて居りました。この上もなくのんびりした秋のある日の夕刻です。 「びつくりさせるぢやないか、俺は糸瓜が物を言つたのかと思つたよ」 「冗談でせう。糸瓜が髷を結つて、意氣な袷を着るものですか」 ガラツ八はそ
野村胡堂
「お早よう」 ガラツ八の八五郎は、尋常な挨拶をして、愼み深く入つて來ると、お靜のくんで出した温い茶を、お藥湯のやうに押し戴いて、二た口三口啜り乍ら、上眼づかひに四邊を見廻すのでした。 「どうした八、大層御行儀が良いやうだが、何んか變つたことでもあつたのかい」 錢形平次は縁側に寢そべつたまゝ、冬の日向を樂んで居りましたが、ガラツ八の尤もらしい顏を見ると、惡戯つ
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「お早う」 ガラッ八の八五郎は、尋常な挨拶をして、慎み深く入って来ると、お静のくんで出した温かい茶を、お薬湯のように押し戴いて、二た口三口啜りながら、上眼づかいに四辺を見廻すのでした。 「どうした八、たいそう御行儀が良いようだが、何か変ったことでもあったのかい」 銭形平次は縁側に寝そべったまま、冬の日向を楽しんでおりましたが、ガラッ八の尤もらしい顔を見ると、
野村胡堂
「親分、變なことがあるんだが――」 ガラツ八の八五郎がキナ臭い顏を持ち込んだのは、まだ屠蘇機嫌のぬけ切らぬ、正月六日のことでした。 「何が變なんだ、松の内から借金取でも飛込んだといふのかえ」 錢形の平次は珍らしく威勢よく迎へました。ろくな御用始めもないので、粉煙草ばかりせゝつて、心待ちに八五郎の來るのを待つてゐたのです。 「借金取や唐土の鳥には驚かねえが、―
野村胡堂
「親分、変なことがあるんだが――」 ガラッ八の八五郎がキナ臭い顔を持ち込んだのは、まだ屠蘇機嫌のぬけ切らぬ、正月六日のことでした。 「何が変なんだ、松の内から借金取りでも飛込んだというのかえ」 銭形の平次は珍しく威勢よく迎えました。ろくな御用始めもないので、粉煙草ばかりせせって、心待ちに八五郎の来るのを待っていたのです。 「借金取りや唐土の鳥には驚かねえが、
野村胡堂
「親分の前だが――」 ガラツ八の八五郎は、何やらニヤニヤとしてをります。 「前だか後ろだか知らないが、人の顏を見て、思ひ出し笑ひをするのは罪が深いぜ。何を一體思ひ詰めたんだ」 錢形の平次は相變らずこんな調子でした。年を取つても貧乏しても氣の若さと洒落氣には何んの變りもありません。 「ね、親分の前だが、褒美を貰つたら何に費はうか、あつしはそれを考へて居るんで」
野村胡堂
「親分の前だが――」 ガラッ八の八五郎は、何やらニヤニヤとしております。 「前だか後ろだか知らないが、人の顔を見て、思い出し笑いをするのは罪が深いぜ。何をいったい思い詰めたんだ」 銭形の平次は相変らずこんな調子でした。年を取っても貧乏しても気の若さと洒落っ気には何の変りもありません。 「ね、親分の前だが、褒美を貰ったら何に費おうか、あっしはそれを考えているん
野村胡堂
「八、居るか」 向柳原の叔母さんの二階に、独り者の気楽な朝寝をしている八五郎は、往来から声を掛けられて、ガバと飛起きました。 障子を細目に開けて見ると、江戸中の桜の蕾が一夜の中に膨らんで、甍の波の上に黄金色の陽炎が立ち舞うような美しい朝でした。 「あ、親分。お早う」 声を掛けたのは、まさに親分の銭形平次、寝乱れた八五郎の姿を見上げて、面白そうに、ニヤリニヤリ
野村胡堂
「八、居るか」 向柳原の伯母さんの二階に、獨り者の氣樂な朝寢をしてゐる八五郎は、往來から聲を掛けられて、ガバと飛起きました。 障子を細目に開けて見ると、江戸中の櫻の蕾が一夜の中に膨らんで、甍の波の上に黄金色の陽炎が立ち舞ふやうな美しい朝でした。 「あ、親分。お早う」 聲を掛けたのは、まさに親分の錢形平次、寢亂れた八五郎の姿を見上げて、面白さうに、ニヤリニヤリ
野村胡堂
「八、久しく顔を見せなかったな」 銭形の平次は縁側一パイの三文盆栽を片付けて、子分の八五郎のために座を作ってやりながら、煙草盆を引寄せて、甲斐性のない粉煙草をせせるのでした。 「ヘエ、相済みません。ツイ忙しかったんで――」 「金儲けか、女出入りか」 「からかっちゃいけません」 「まさかあの案山子に魔が差したようなのに凝っているんじゃあるまいな」 「何です、そ
野村胡堂
「八、久しく顏を見せなかつたな」 錢形の平次は縁側一パイの三文盆栽を片付けて、子分の八五郎の爲に座を作つてやり乍ら、煙草盆を引寄せて、甲斐性のない粉煙草をせゝるのでした。 「へエ、相濟みません。ツイ忙しかつたんで――」 「金儲けか、女出入か」 「からかつちやいけません」 「まさかあの案山子に魔が差したやうなのに凝つてゐるんぢやもるまいな」 「何んです、その案
野村胡堂
「親分、ちと出かけちゃどうです。花は盛りだし、天気はよし」 「その上、金がありゃ申分はないがね」 誘いに来たガラッ八の八五郎をからかいながら相変らず植木の新芽をいつくしむ銭形の平次だったのです。 「実はね、親分。巣鴨の大百姓で、高利の金まで貸し、万両分限と言われた井筒屋重兵衛が十日前に死んだが、葬い万端すんだ後で、その死にようが怪しいから、再度のお調べを願い
野村胡堂
「親分、ちと出かけちやどうです。花は盛りだし、天氣はよし」 「その上、金がありや申分はないがね」 誘ひに來たガラツ八の八五郎をからかひ乍ら相變らず植木の新芽をいつくしむ錢形の平次だつたのです。 「實はね、親分。巣鴨の大百姓で、高利の金まで貸し、萬兩分限と言はれた井筒屋重兵衞が十日前に死んだんだが、葬ひ萬端濟んだ後で、その死に樣が怪しいから、再度のお調べが願ひ
野村胡堂
「親分は? お靜さん」 久し振りに來たお品は、挨拶が濟むと、斯う狹い家の中を見廻すのでした。一時は本所で鳴らした御用聞――石原の利助の一人娘で、美しさも、悧發さも申分のない女ですが、父親の利助が輕い中風で倒れてからは、多勢の子分を操縱して、見事十手捕繩を守り續け、世間からは『娘御用聞』と有難くない綽名で呼ばれてゐるお品だつたのです。 取つて二十三のお品は、物
野村胡堂
「親分は? お静さん」 久し振りに来たお品は、挨拶が済むと、こう狭い家の中を見廻すのでした。一時は本所で鳴らした御用聞――石原の利助の一人娘で、美しさも、悧発さも申分のない女ですが、父親の利助が軽い中風で倒れてからは、多勢の子分を操縦して、見事十手捕縄を守りつづけ、世間からは「娘御用聞」と有難くない綽名で呼ばれているお品だったのです。 とって二十三のお品は、