七月の水玉
片岡義男
教授の研究室のドアは開いていた。立ちどまった彼は教授の名を呼んだ。部屋のなかからいつもとおなじおおまかな返事があった。彼は研究室に入った。いくつもの本棚や書類キャビネットで部屋の壁はすべてふさがれ、残ったスペースのいっぽうに教授のデスクがあり、もういっぽうには三つ揃った肘かけ椅子が配置してあった。教授はそのひとつにすわり、その隣の椅子には長身にスーツ姿の年配
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片岡義男
教授の研究室のドアは開いていた。立ちどまった彼は教授の名を呼んだ。部屋のなかからいつもとおなじおおまかな返事があった。彼は研究室に入った。いくつもの本棚や書類キャビネットで部屋の壁はすべてふさがれ、残ったスペースのいっぽうに教授のデスクがあり、もういっぽうには三つ揃った肘かけ椅子が配置してあった。教授はそのひとつにすわり、その隣の椅子には長身にスーツ姿の年配
片岡義男
かつては洗濯部屋だったところが、スライドや16ミリ・フィルムの映写室になっていて、いま僕たち四人はその部屋のなかにいる。映写時間にして五十分ほどの16ミリ・フィルムを、これからみんなで見ようというのだ。窓が北に面してひとつしかなく、その窓のブラインドを降ろすだけで、この部屋は昼間でもまっ暗にすることが出来る。 16ミリ映写用のスクリーンには、透明なリーダー・
片岡義男
眠りから覚めて目を開くまでの時間は、ごく短い。二秒ないだろう。 目を覚ましたぼくは、自分が寝ている場所の香りにあらためて気づき、いつもの自分の場所ではないところに自分が眠っていたことを認識しなおした。 ぼくは、目を開いた。天井が見えた。見なれない天井のたたずまいに、部屋の香りはよく似合っていた。香りというよりも、匂いだろうか。ベッドに違和感があった。なれた自
片岡義男
三十分ほどまえに、ぼくは目を覚ましベッドを出た。ついさっき、シャワーを浴びた。うなじのあたりが、まだ濡れている。いまは朝だ。 朝食を作るために、ぼくはキチンに入ってきた。キチンの窓のまえに、ぼくは立っていた。窓の外にある景色を、ぼくは見ていた。「ホノルルの景色として、最高の景色のひとつが、この家ではキチンの窓からでも見ることができるのですよ」ぼくがこの家を借
片岡義男
カアナパリまでの飛行機はどれも満席だった。いったんどこかほかの島へいき、そこからカアナパリへの飛行機を見つけるというアイディアを、僕はこれまで何度も試みた。一度も失敗したことがない。しかし今日はカフルイまで飛ぶことにした。すでに搭乗の始まっている便に空席があった。 マウイに向けて海の上を飛びながら、カアナパリの近くの砂糖きび畑にセスナで不時着したときのことを
外村繁
私が生れたところは滋賀県の五個荘である。当時は南、北五個荘村に分れていたが、今は旭村と共に合併して、五個荘町となっている。 村の西南部には小山脈が連っている。繖山脈と呼ばれている。その一峰に、往昔、近江守護、六角、佐佐木氏の居城のあった観音寺山がある。その山頂にある観音寺は西国第三十三番の札所である。西方の一峰は明神山と呼ばれ、その中腹に古刹、石馬禅寺がある
シゲリストヘンリー・E
「メッセンジャー博士記念講義」は「文明の進化」を取り扱うものであり病気がこの文明の進化において重要な役割を果たしていることは疑いもない。物質的な過程である病気と人類の心の崇高な産物である文明の両者以上に異なる2現象は他にない。しかしこれらの間の関係はきわめて明らかである。 病気が生物学的な過程であることは今日ではよく知られている。人間は正常の刺激にたいして正
シゲリストヘンリー・E
この本を書き始めたときに疑問が私を襲った。私は偉大な医師たちの生涯と仕事を書くことにしていた。しかし多くの医師たちは神聖な使命の火に鼓舞され毎日の業務に献身したので偉大であり援助を本当に必要とする無数の苦しむ同胞を助けてきた。病気の鎖を切ることによって多く人たちの涙を乾かし幸福を運び入れ多くのことを成し遂げていた。 過去を振り返ってみると医師たちの行列は終わ
火野葦平
「たいそう暗いが、キヌさん、もう何時ごろかのう?」 「まあだ、三時にはなりゃあすまいね」 「やれやれ、この谷は一日がよその半分しかないよ。仕事も半分しか、でけやせん」 「その代り、夜がよその倍あるわ」 「倍あったって、電燈はつきゃせんし、油は高いし、寝るしか用がない。この村の者がどんどん都に出て行くわけがわかるよ。遠いところに行く者は、ハワイやブラジルまでも
浅沼稲次郎
もう銀婚式をあげる時がきている。しかし住居は依然として深川白河町の狭いアパート、事務所と併用の様なものなので生活にはなんの進展もない。 自分は早稲田を出て以来、三十年あまり、身を社会運動に投じ、自己を犠牲にして大衆に奉仕し、社会主義実現のために闘うことが、歴史的任務と考えて微力をつくしてきた。これはどうしても家庭を犠牲にする。戦後日本社会党が結成されてから、
浅沼稲次郎
わが生まれ故郷三宅島は大島、八丈島などとともに近世の流罪人の島として有名である。わたくしは先祖をたずねられると『大方流罪人の子孫だろう』と答えているが、事実、三宅島の歴史をみると遠くは天武天皇三年(皇紀一三三六年)三位麻積王の子を伊豆七島に流すと古書にある。島には有名流罪人の史跡が多い。三宅島という名の由来も養老三年(皇紀一三七九年)に、多治見三宅麿がこの島
浅沼稲次郎
早稲田に入ったのは、大正六年で学校騒動で永井柳太郎、大山郁夫氏等が教授をやめられた年の九月であるが、早稲田を志望したのは早稲田は大隈重信侯が、時の官僚の軍閥に反抗して学問の独立、研究の自由を目標として創立した自由の学園であるという所に青年的魅惑を感じて憧れて入学したのである。丁度当時は、第一次欧洲戦争の影響で、デモクラシーの思想が擡頭して来た時代である。 そ
浅沼稲次郎
一九五三(昭和二十八)年三月十四日 衆議院本会議 私は、日本社会党を代表いたしまして、ただいま議題になりました改進党並びに両社会党の共同提案による吉田内閣不信任案に対し賛成の意を表明せんとするものであります。 吉田内閣は、日本独立後初めて行われた総選挙のあとをうけて昨年十月召集され、現に開かれておる第十五国会において成立せる内閣であります。その内閣が、同じ特
魏徴
倭國在百濟・新羅東南、水陸三千里、於大海之中、依山島而居。魏時譯通中國三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日、其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下、都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云、去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與耳相近。漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。桓・靈之間、其國大亂、遞相攻伐、歴
風巻景次郎
本書が版を改めて世に出る時を持ちえたについては、並み並みでなく感慨を強いられるものがある。 私は昭和十四年の年末に原稿を書きあげて、翌年一月二十日づけの序をしたためた。そして本書の初版は二月二十日の日附で刊行されている。それは日本的なるものの強調から日本主義にすすみ、林内閣の祭政一致の宣言から国民精神総動員へと急激に傾きつつあった一時期である。その線に沿って
大鹿卓
乞う、陸地測量部二十万分ノ一の地図「日光」及び「宇都宮」をひろげてみよ。中禅寺湖をかこむ外輪山の南面、松ノ木沢に源を発してうち重なった緑のひだのあいだを南流する一川に気づくであろう。それは赤城山脚を右岸とするあたりからおおきく東南に転じ、左岸に日光山彙からなだれてきた一群の丘陵の裾をおさえつつ、大間々、桐生、足利とようやく広濶の地にでて、迂曲し蛇行して栗橋の
大鹿卓
稚内ゆきの急行列車が倶知安をすぎ、やがて山地へかかって速力がにぶると、急に雪が降りだした。粒が細かくて堅く結晶した雪だということは、車窓にふきつけるサッサッササ……という音でわかった。線路近くのエゾ松林に、防雪林などと書いた棒杭が見出された。その林の青黒い枝々はすでにかなりの雪を積らせていて、飛白の布地のように目を掠めてゆく。いうまでもなく、雪が急に降りだし
小川未明
秋も末のことでありました。年老ったさるが岩の上にうずくまって、ぼんやりと空をながめていました。なにかしらん心に悲しいものを感じたからでありましょう。夏のころは、あのようにいきいきとしていた木の葉が、もうみんな枯れかかっていて、やがては、自分たちの身の上にもやってくるであろう、永い眠りを考えたのかもしれない。たとえ、はっきりと頭に考えなくとも、一時にせよ、その
小川未明
何処からともなく一人の僧侶が、この村に入って来た。色の褪せた茶色の衣を着て、草鞋を穿いていた。小さな磐を鳴らして、片手に黒塗の椀を持て、戸毎、戸毎に立って、経を唱え托鉢をして歩いた。 その僧は、物穏かな五十余りの年格好であった。静かな調子で経を唱える。伏目になって経を唱えている間も、何事をか深く考えている様子であった。眉毛は、白く長く延びていた。頭にはもはや
小川未明
正一は、かくれんぼうが好きであった。古くなって家を取り払われた、大きな屋敷跡で村の子供等と多勢でよくかくれんぼうをして遊んだ。 晩方になると、虻が、木の繁みに飛んでいるのが見えた。大きな石がいくつも、足許に転がっている。其処で、五六人のものが輪を造って、りゃんけんぽと口々に言って、石と鋏と紙とで、拳をして負けたものが鬼となった。 鬼は、手拭で堅く両眼を閉めら
小川未明
善吉は、ほかの子供のように、学校から家に帰っても、すぐにかばんをほうり出して、外へいって、友だちと自由に飛びまわって遊ぶことはできませんでした。仕事のてつだいをさせられるか、弟を脊中におぶって、守りをさせられたからであります。彼と同じ年ごろの子供たちが、土手へはい上がったり、茶の木の蔭にかくれたり、みぞをおもしろそうに飛び越すのなどを、そばでぼんやりとながめ
小川未明
あるところに、気の弱い少年がありました。いい少年でありましたけれど、気が弱いばかりに、うそをついたのです。自分でも、うそをつくことは、よくない、卑怯なことだということは知っていました。 「もう、これから、私はうそはつかない。」と、うそをいった後では、いつも少年は心にそう思うのでした。 けれど、それは、悪いと思われないような場合もありました。たとえば、病人に向
小川未明
太郎が叔母さんから、買ってもらった小刀は、それは、よく切れるのでした。あまり形は、大きくはなかったけれど、どんな太い棒でもすこし力をいれれば、おもしろいように切れるのでした。 太郎は、いままで持っていた小刀を捨ててしまいました。その小刀は、いくらといでもよく切れなかったのです。太郎には、よくとぐことができなかったのにもよりますけれど、もとから、その小刀は、よ
小川未明
秋になって穫れた野菜は、みんな上できでありましたが、その中にも、大根は、ことによくできたのであります。 百姓は、骨をおった、かいのあることをいまさらながら喜びました。そして、これだけにできるまでの、過ぎ去った日のことなどを考えずにはいられませんでした。 彼は、ある日、圃に出て、たねをまきました。それが、小さなちょうの翼のような芽を出してから、どんなに手のかか